渡邊拓也

武蔵野音楽大学、同大学大学院ヴィルトゥオーゾコースを修了。

音楽でしか表現出来ない世界に魅せられ、独学で作曲を勉強する。

大家の作品の演奏のみならず、「この世にかつてない、新しい音楽を作る」「自分の感じる世界を余すことなく表出する」という理念の元に、創作や独自の響きの研究も行っている。

大学の専攻はピアノだが、ヴァイオリンも演奏する。

 

小自伝

【幼少期から小学生にかけて】

僕のふるさとは福島県郡山市。小学生から高校生にかけて、部活などでの音楽活動が盛んな地域だ。幼稚園から小学生中学年まではそんなことを知る由もなく、外遊び(特にドッジボールや野球など)、ゲームが大好きで、親しい友達と遊ぶ時間を何よりも楽しみにしていた。

音楽をしたり聴いたりするのは、2歳の頃からヤマハの幼児コースに通っていたからか昔から好きで、幼稚園にいた頃は、幼稚園の先生が歌の時間に弾いてくれていた簡単なピアノ伴奏(思い出のアルバムのような曲)をいつの間にか耳コピしいていて、家に帰ってキーボードで弾いていた。とにかく音楽は僕にとって、いつも生活の中にある、切っても切れない存在だった。

しかし、音楽すること自体は好きだったが、小学生になってヤマハのグループレッスン・ピアノ個人レッスンが週一ペースで始まり、学校の宿題と合わせて、ピアノのレッスンの宿題もしっかりやっていく、ということがだんだん負担に感じられ、練習はレッスンの前日か当日に始めるという、音楽的には不真面目極まりない生活をしていた。だって、友達と遊ぶのが楽しくて仕方なかったのだから……。

音楽自体が嫌いなのではなかった。ピアノを弾いていると没頭できるし、普段の生活とはまた違った楽しみがあることは、幼いながらに感じていた。いじめにも遭っていたが、遊ぶことと自由にピアノを弾くことが、それに立ち向かうための大きな心の支えになっていたことは確かだ。宿題をやっていく、ということが、特別自分にとって負担に感じていただけだった。

小学3年生の時は、コンクールに出るために練習していたブルグミュラーの25の練習曲の「つばめ」という曲があまりにも好きで、沢山練習をし、初級Aという一番レベルが下のグループでではあったが、福島県の中で一位を取った。好きなもの、興味の湧くものには没頭する性格は、この頃から変わっていない。

そうして自分のペースで楽しく音楽をしていた僕だが、小学4年生の終わり頃に、転機がやってきた。学年の先生から、「拓ちゃん、合唱部で伴奏をやってみない?」と声をかけられたのだ。今思えば、音楽に真剣に取り組んで、喜びを皆で分かち合った全く最初の経験は、その言葉掛けで始まった特設合唱部での経験だったのかもしれない。

【部活に没頭した、小学校高学年から中学時代にかけて】

放課後に音楽室に集まってみんなで歌う、そしてその伴奏をする時間は、とても楽しかった。外遊びの時間も、だんだん部活での合唱に取って代わっていった。夏休みはひたすら学校の体育館に集まって、休憩を挟みながら3〜6時間の練習をしていた。何かに向かってみんなで熱くなるという経験は、何にも換えがたかった。僕が6年生の頃に僕の属していた合唱部は、東北大会で最高位を取り、学校史上初の全国大会に出場した。全国大会はNHKホールで行われ、スタインウェイのフルコンサートグランドピアノで伴奏をすることができた。皆が思い切り演奏し、その結果銅賞を頂くことができた喜びは、今でも忘れられない。

ピアノ伴奏のお仕事を今では沢山頂いているが、伴奏の楽しさ、面白さを見出したルーツは、間違いなく、この合唱部時代だ。

中学生になっても、ピアノレッスン前日か当日からしかレッスンのための練習をしない生活は、相変わらずだった。小中時代からピアノをバリバリやっている人に比べたら怠惰もいいところだったが、昔の自分に喝を入れたい反面、あの頃自分の思うように毎日充実して過ごせたことで今の自分があると思うと、思い切り生きていたことを誇りにも思う。

部活は卓球部に入ろうか管弦楽部に入ろうか迷った。友人の誘いで最初に管弦楽部に見学に行ったところ、初めて通りかかった場所がヴァイオリンパートの練習場所で、「君、ちょっとヴァイオリン弾いていかない?」という先輩の一言を受け、初めてヴァイオリンに触った。直接弦を弓で鳴らす感覚が面白くて、即入部と、ヴァイオリンパートに入ることを決めた。7月には市の大会があった関係で、新入りであろうが3年生であろうが、経験者であろうがなかろうが、入部して4ヶ月目でチャイコフスキーの交響曲第4番の第4楽章を弾けなければならなかった。今思えば、本当によく弾いたなと、ただ驚くばかりだ。同じ条件が与えられて、果たして今の歳で同じことができるだろうか。怪しい。

オーケストラのヴァイオリンパートにのめり込んだ僕は、沢山練習して、3年生の時にはなんと、管弦楽部のコンサートマスターに就くことができた。練習は大変だが面白いと思う感覚は、この頃どんどん育っていった。外部に先生を持たない状態でコンサートマスターになってしまったので、さすがに先生に就いた方がいいのではないかという両親の勧めで、ヴァイオリンの先生に就き始めた。ピアノを本格的に深め始める高校時代の途中までヴァイオリンの先生には就いていて、高1の時に、ブルッフ作曲の「ヴァイオリンコンチェルト第1番」の第1楽章を、発表会で弾いたほどに上達した。

そのうちに学校で進路指導なるものが始まって、初めて将来のことを真剣に考えた。今まで長くやってきたピアノを深めていきたいと思い、中3の時に、音大進学を決めた。せっかく仕事につながる道に進むなら、音楽の道を極めていきたいと思った。

この頃から、劇的に価値観が変わっていった。今まで平和に、何の疑問も持たずに過ごして見過ごしてきたものも、懐疑の目を持つことが増えた。例えば、意思と体の動作の関係。何かを表現したいものがあって初めて音楽ができるのに、動作を習慣化してでしか音楽をしていないのはおかしいと思うようになり、部活でコンサートマスターになったという責任の重さから、ピアノはともかく、ヴァイオリンの音を出す時は、必ず意思を持ってから弾くことに気をつけるようになった。最初は何かを得るために不自由を感じるものだが、その不自由を試行錯誤を経て一つ一つ乗り越えることで、得られるものの価値もまた大きくなることにも、気付き始めた。

3年生の美術の授業の最後の作品提出が、黒画用紙に色画用紙を切って貼り付けていくことで一枚の絵を作るというものだったが、「自分から何かを生み出す、一つ一つのパーツにもエネルギーを持たせる」ということを意識して配置していって、何かに狂った一人の人間を表した、「狂乱」という作品を作り上げたのは、今でも鮮明に覚えている。評価なんて、どうでも良かった。何かを自分の意思で生み出すという感覚を、その作品を作り上げることを通じて強烈にわかりたかったのだ。

この頃から、音楽上でも創作に興味が湧き始め、ひっそりとやっていたブログに自作曲の録音を上げることもしばしばあった。小学生の頃作曲コンクールに出た経験もあるが、あれは正直、先生の助けがなかったら作品が出来上がってなかったので、完全に自分の創作と言えるものは、このころの作品からだ。

いや、今一つだけ例外を思い出した。小3の時に母が初めて契約した携帯電話は、「設定」の中から音を一つ一つ打ち込めば着信音を設定できるようになっていた。それを面白がった自分は、

ドードドードードーーミドレードレードシーーー

シーラシードレシドーシドーレーミーー

ソーファーミードーファーミファーソラーー

ソーファーミーファミーレードーーー

レードシードーレーミレドーシドーレーミーー

ファ#ーソーラーファ#ーソーーーー

ソーファ(ナチュラル)ミーファーソーーミドラーソファーソーラーーソファ

ミーソファーミーレーファミーレードーーーーー

という着信音を作った。間違いない、自分にとって初めての創作体験と言えるものは、この着信音作成だ。

【音大進学を目指した高校時代、弦楽合奏部】

高校に入るやいなや、音大を目指すために、ピアノのことから音楽の基礎であるソルフェージュまで見て下さる先生に新しく就き始め、超特急で音大受験の準備を始めた。

この時、準備する曲が多いのは当然のことながら、「ピアノで完全に意思を持って1音出すということはどういうことなのか」を真剣に考え、根こそぎ研究し始めた。そうでないと本当に人の心に届く演奏はできないとの思いからだ。中学の頃にヴァイオリンで疑問に感じていたことを、やっとピアノでも向き合い始めたのだ。

最初は、曲を弾くどころのことではなかった。一点Aの音を一音出すだけで、文字通り吐きそうになりながらピアノを弾いていた。音を出すというのは、実際これほどまでに大変な過程を踏んで為されることなのかと思った。ある音を出したいと念じて動作が自然についてくるようになるまで、実にここから数年の歳月を必要とした。自分から進んで、喜んで、音楽することにだんだん狂い始めた。

「人前である曲を演奏する」ということは、ある演目を舞台で演じる俳優業に重なるものがあると、この頃に思い始めていた。

舞台の台本はある言語で書かれ、それは役者にとっての母国語で書かれていることが多い。それを読み込んで練習して役に入り込めるのは、ある程度その言語(母国語)で生活してきた背景がある、つまりその言語を実感を伴って喋れることが無意識ながら前提にあることに気付いた僕は、これから自分が音楽の上でやらなければならないことの大変さと重大さに気付いてしまった。

「音楽を始原的な伝達行為として、あらゆる言語よりも根源的な位置で、自分にとっていわば母国語化すること」が、自分が目指す音楽家になるに当たっては必要なことに。

具体的に言えば、大作曲家が残した作品を弾いている間は、音楽的には当時、本当の意味で自分の言葉で喋ることができていなかったことに気づいたのだ。

「その曲を書いてくれた作曲家はもう自分で一から音楽ができる。それなのに、自分で一から音楽を完全に生み出すことに慣れていない僕は、その曲を作曲した大作曲家の言葉をなぞって、借りて喋っているだけなのかもしれない」と。

ここから、一から自分の言葉で喋れる、そんな音楽ができるようになるための努力が始まった。全ては、自分が演奏家として生きていく、そのことにしっかりとした価値と意味を持つために始めた努力だ。答えのはっきりわからないものに真剣に向き合う、初めての経験だったと思う。ここでは書ききれないので、またいつか、そのことについて詳しく書くことができる機会が来れば嬉しい。

だいぶ音楽の専門的な話になってきてしまったが、高校生活がどうだったかに、話の軌道を戻していきたい。

高校の部活は弦楽合奏部で、ここではヴァイオリン、ヴィオラ、ピアノを担当した。特にヴィオラは高校に入ってから初めて弾いて、一番低い音の鳴るC線の音の暖かみに惚れ込み、たぶん、ヴァイオリンよりも長い時間積極的にヴィオラに触れていた。一人で色々な物事に向き合っていくピアノの傍ら、みんなで真剣に合奏を楽しむ、いいものを作り上げていくコミュニティの中に居れて、本当に良かった。

その時間がなかったら、ピアノで向き合うものが大きすぎて重すぎて、潰れていたかもしれない。中学の時よりもみんなで合わさった響きを大事にする感覚、全体の流れの中で今自分がどう働くべきかの感覚が、部活を通じてかなり育った。そして、純粋に合奏が楽しくて仕方がなかった。

高校の授業は、流石に東大生を輩出するような進学校なだけあって、全教科予習が絶対に必要なレベルだった。そうでないと追いつけたものではない。休み時間に購買部で買えるタンドリーチキンの惣菜パンが大好きで、授業の合間によく食べていた。

ピアノに真剣に取り組んでいた僕は、部活が終わって家に帰ってきてご飯を食べて、ピアノを練習し終わった0時近くからしか、自習の時間を持てなかった。ピアノの練習は気力と体力を相当使うので、朝早く起きて勉強を始めるのは、あまりにも辛すぎた。

高校生としてはあまりいい例でないかもしれないが、全教科まんべんなく予習するのは、早い段階から諦めてしまった。しかし、せっかく高校で学べるものは無駄にしたくなかったので、国数英だけは頑張ろうと思い、特に数学の勉強にはのめり込んだ。

時間が許したのは高1の時までだったが、数学の定理が導き出されるまでのアイデアの斬新さやいつでも根拠を伴った自由さなどに惹かれ、そして将来物事を自分で考える基礎にもなると思って、かなりの時間を数学に費やした。教科書で習う定理を、最初に与えられた条件だけから5時間くらいかけて、自分で導き出したことも少なくなかった。

音楽の道に行っていなかったら、冗談抜きで、数学を志していただろう。

この時期にできた友達は、とても少なかった。部活の仲間が、貴重な存在であった。「修行だ」と思って、この時期を過ごしていた。

【大学受験、そして大学、大学院時代】

東京藝術大学と武蔵野音楽大学を併願して受験したが、藝大の試験ではエチュード試験で失敗し、落ちてしまった。しかし、武蔵野音楽大学の試験には晴れて合格することができ、ここから伸び伸びした、音楽漬けの生活が始まることになる。そんな素晴らしい環境に進学させてくれた両親に、心から感謝している。

高校時代に友達をあまり作らなかった反動であるかのように、大学では友達付き合いも縦のつながりも充実してきて、性格も垢抜けていった。この頃から、心の充実度と音楽の充実度は比例することを、強く感じ始めていた。

声楽や楽器の伴奏をすることで、高校生までは知らなかったタイプの新しい、または古い時代の音楽に触れることができ、音楽の幅が格段に広がった。

部活として合唱研究部に入り、主にベースのパートにいた。ベースが全体の響きを包む、そして色合いに多大な影響を及ぼすことを実感していた。副部長も経験し、発声の指導係にもなり、指揮や練習の指導も行い、音楽をする上での視野はどんどん広がった。

他にも、オペラ研究部、ヴォーカルアンサンブル部、宗教音楽研究部に入っていた。

無調性の音楽に関心が出てきたのも、大学時代だった。

僕は、実はくだらない理由で1年留年している。自分の怠惰を深く反省し、両親に頭を下げ、1年間頂くことができた。そんな時期があったことも、ここに隠さず書いておきたい。この1年間は絶対に無駄にしたくないと思い、声楽、ヴァイオリン、チェロ、トランペット、ホルン、トロンボーン、チューバ、オーボエ、クラリネット、サックス、フルート、打楽器、オペラコースの伴奏を1年間の間に受け持ち、作曲の基礎も勉強した。有り難くも、音楽の勉強漬けの年になった。

ポーランドへ短期留学に行ったことも、異文化に触れる、そして西洋音楽の源流に触れることができた、貴重な体験になった。

4年生の時に受けた卒業試験では、武蔵野音楽大学の器楽学科(ピアノ)で2番手の成績を頂くことができ、卒業演奏会にも出演した。とても伸びやかな5年間で、そんな中で自己の芸術の研鑽ができたことは、大変に感謝している。

武蔵野音楽大学の大学院のヴィルトゥオーゾコースの入学試験に合格していた僕は、2016年の4月から大学院で友人たちと切磋琢磨していた。学部の時よりも、こなさなければならない曲の量が増えたので少々大変な日々だったが、演奏者、発信者になることにさらに真剣に向き合うことのできた時期だった。音楽活動が社会的にどんな位置付けであるかを真剣に考え、人間の中でどんな活動であるかを深く考察し、社会に出てどんな音楽活動をしていくべきか、していきたいかもだいぶ考えた。

そうして、今までの人生、音楽活動の集大成として、専門では無いが自分にとっては根源的で重要な行為である作曲にもまた取り組み始め、2017年には初めて公の場で自作曲「創作主題による変奏曲 変ロ長調」を披露し、2018年にかけて数カ所で演奏させて頂いたこの曲は、各所で好評を頂いている。まだ聴いたことのない方には、是非とも聴いて頂きたい作品だ。

大学院在学中に、大学時代からの友人であるギルバート慶に声をかけてもらい、僕自身初となるピアノアルバム「こころの歌、ピアノにのせて」をダウンロード配信に限定して発売し、「とても癒される」「毎日聴くのが日課になっている」などと、こちらも好評を博している。

 

 

 

 

◆こころの歌、ピアノにのせて

☆試聴する

ピアニストである渡邊拓也の、1stピアノソロアルバム。

自分でない作曲家が作った作品を演奏する際は、(演奏者×作曲者)の音楽の世界の深化が必要である。演奏者の音楽観の押し付けはその楽曲の価値を著しく落とすし、あまりに作曲家にコミットしすぎた演奏は、自分の言葉で喋っていないのと同じで説得力を欠く。
よって、演奏者は自立して音楽ができることが大事であるし、同時に、楽譜を深く細部まで読み込むことは、作曲者からのメッセージを充分に受け取る上で重要である。

本アルバムはピアノソロ名曲集のような顔も持ちながら、一般的な演奏であまり大事にされていない特定の休符やアーティキュレーション、作曲者がはっきりアクセントを書いているがなかなか強調されていないメロディーラインを可能な限り大事に弾き、作曲者の思い描いていた世界を現代のピアノ、演奏者の感性を通じてできる限り具現化しようと表現したものが収められている。

どの曲も歌を聴くようにメロディーがはっきり浮かび上がってくるので、クラシックにあまり馴染みのない人でも、気軽に聴いて頂けるアルバムに仕上がっている。
老若男女を問わず、多くの方に楽しんで頂きたい。

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【これから】

現在、Enrichというレーベル名のもと、ギルバート慶とともに、自作曲・編曲・即興演奏のみを集めたピアノソロCDアルバム「Dreaming」を製作中。僕の人生観や音楽観、新しい音楽体験の詰まった作品になっているので、是非楽しみに待って頂きたい。社会に出た今、美しいものだけではなくえぐみのあるもの、光だけではなく闇も、対極をなすどちらの要素もあってこの世界が成り立っていることを常に思いながら、自分の求める音楽をさらに深めていきたい。そして、このレーベルを通じて、そして生演奏の場でも、音楽をどんどん発信していく予定だ。そうして発信された音楽が、聴いて下さる方々の心に少しでも響き、ひいてはこの世界がじわじわと、より豊かになっていく(Enrich)ことを、心から願っている。