演奏を行う際は、かならず強度の差はあれ変性意識状態に引き込まれる。
演奏を聞いていて、重力の感覚を失ったり、幻覚が見える人がいるのはこのためで、
逆にこれをわざと引き出すような技術もある。
演奏をするというと、音大などでは基本的には音のことをメインに指導される。
「音楽を習う」ことイコール「音をうまく出す」ということを習うことのようになっていると思う。
もちろん、音を扱う技術が高いのは、音楽という情報上の臨場感を高め、感情などを共感させることを誘発させやすくなるので、効果的だ。
しかし、音は音楽の中心的存在ではなく、音楽の臨場感を高めるための道具のうちの一つだ。
だから、音を大事にすることは大事だが、それと同等かそれ以上に「脳」の使い方が大事になってくる。
これが演奏の本質はなんなのか、ということに対する、物理的な観点からの答えだ。
そして、音楽を聴く能力のうちの一つでもある。
西洋音楽は音楽は化石のように、情動や細かいアゴーギクが削ぎ落とされて楽譜に記録されている。
そこから出てくる音をたどって、共感覚などを使って臨場感を上げていけば、死んだ作曲家にも会うことが出来る。
作曲家の伝記などをたくさん読むことも大切だが、実際に会うこと(またはそれと同等レベル)によって、人物像がありありとわかるはずだ。
これが本当の「聴く力」で「理解する」ということだ。
「聴く力」は聴力だけの問題ではなく、聴力は道具に過ぎない。
霊などではなく、これは脳がもともと持っている能力を使って起こる現象だ。
「理解を超えた理解」と言うのが適切だと思う。