近代の日本によって行われる道徳教育では、優しくしたり愛し、愛されることが良いことだというのは不動の正義のようですが、
これはもちろん、心の発達や安定の面では効果的に働くというだけで、
霊長類の群れの中でも特に資本主義的な競争社会に於ける成功をする度合いを考えると、むしろ愛されないで育った方が能力値が高くなる場合が多々あります。
人間は発達していく段階で、周囲の親などに、理解をしてもらい、自分の痛みや喜びを人も理解してくれることと、そうしようとする方向性に行くことを学び、日常の中で習得していきますが、特に愛されないで育つか、もしくは愛されていてもそれをうまく感じられずに肉体だけが成長すると、この精神の発達の段階がクリアされず、相手のことを思いやったり出来ない精神の段階を持ったまま成人します。
思いやったりしようという心があっても、上手く出来ないという感じですね。
アメリカでは「愛するということ」という本がかなり売れました。
これはエーリッヒフロムが、「愛することは、技術だ」という論を展開し、練習することによって
愛することも愛を感じる能力も成長していくというものでした。
この本が言っていることは間違いではないと思いますが、このような本が出る必要があるのは、資本主義の競争が激しい社会になったからです。
文明が発達している地域ほど愛着や精神の発達の問題は多く見られます。
これは、人間を無条件に一人の価値のある存在として認めるのではなく、市場価値で判断する傾向が強まるからです。
今の日本では、子供がどのような実力を持てるようになるかというところに成長の焦点がおかれます。
そうして育った子供も、親の学歴を自慢したり、と資本主義の中に組み込まれていき、欠乏感を持ったまま成長していきます。
しかし、このように育てられるということは、上手くいかないと愛されない、社会的な価値を持たないと存在している意味がないという感覚を本人に与えるので、ものすごく努力することになります。常に安心できない状態にいるので、脳機能においても、ストレスや恐怖をかなり感じにくい状態になり、心理学に於いて「サバイバル脳」と呼ばれる状態になります。
「愛されても愛されなくても行動にはそんな変わらないんじゃないかな」と考える方が多いと思いますが、これは心の問題というよりも、生物学的な機能の問題なので、意識では制御できないレベルで努力の衝動が起こります。
そして、このように努力をものすごくする上で、人の痛みを理解する能力が欠如しているパターンが多いので、
ボスザル的な存在が生まれてきます。
もちろん、愛されて育ったボスザルも中にはいますが、
「相手がかわいそうだから殴れない」と感じるボスザルは、ボスザルにはなりにくいですし、
人間界に於いては、「かわいそうだから契約してあげよう」などと考えることしかできない人間は、上に行きにくい構造になっているのです。
これは人間の優しさを産む構造と、合理的に考える思考を産む構造がそもそも違うためです。
では、今日は以上です。愛着理論は芸能・武道・資本主義的成功に於いてかなり重要なので、また続きを書きます。