犯罪とはなにか①罪刑法定主義について

無垢な子どもに「どうして人を殺してはいけないの?」とか「どうして人の物を盗んだらだめなの?」と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょう。小説やドラマでは、よくこのような子どもが登場しては大人を困らせていますね。たしかに、このような根源的な問いに答えることは難しいと思います。なぜなら、答えが1つではないし、その答えを実証することも難しいからです。

では少し考え方を変えてみましょう。人を殺したら、人の物を盗んだら、どうなるでしょうか。おそらく警察に捕まり、取り調べを受け、検察に起訴され、裁判にかけられるでしょう。それはなぜでしょうか。答えは明白です。殺人や窃盗は「犯罪」とされているからです。

「犯罪」とはなんでしょうか。これも少し難しい問いかもしれませんが、実は正解といえる答えを出すことは困難ではありません。厳密な定義は置いておくとして、ひとまず「刑法」に記載されている行為が犯罪だということになるのではないでしょうか。では、なぜ人々犯罪を刑法という法典に記載することにしたのでしょうか。

この問いは、突き詰めて考えると結構難しいものです。実は、犯罪が刑法という法典によって定義されている、というのは近代国家において非常に重要な要素なのです。これは現代日本のような近代国家を支える民主主義や自由主義といったイデオロギーとかなり密接に結びついています。これまでこちらのブログでは、憲法や革命といった観点から近代国家についてたびたび言及してきました。今回はそういったテーマとのつながりを意識しながら、「犯罪」というものについて考えてみたいと思います。

先ほど書いた通り、現代日本において殺人や窃盗は犯罪とされており、その根拠として法律である刑法が存在します。具体的には、殺人については刑法199条に「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」とあり、窃盗については刑法235条に「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、10年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」と記載されています。かなり具体的に書かれているんですね。この「具体的に」というところが実は非常に重要なのです。

なぜ刑法において犯罪がここまで具体的に書かれているかというと、近代国家には「法律無くば刑罰無く、法律無くば犯罪無し」という原則があるからです。「法律無くば刑罰無く」というのは、法律によらずに人に刑を下してはならないということです。歴史的に、人間はさまざまな「私刑」を行ってきました。「ワルモノ」をリンチしたり殺したりしてきたわけですね。しかし、誰が「ワルモノ」なのか、ということを適正な手続きで証明しないとで刑を下してしまうと、何も悪いことをしていないのに、例えば「気に食わないから」という理由で処罰されてしまう人が出てきます。そのような恣意的な刑罰を防ぐためにはまず、何が犯罪なのかを法律で定義する必要があります。法律に記載したものだけが犯罪である、ということです。それが、「法律無くば犯罪無し」という原則なのですね。

上記のような近代国家の犯罪に関する原則は、「罪刑法定主義」と呼ばれています。罪刑法定主義はイギリスのマグナ・カルタにはじまり、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言を経て確立した観念だとされています。また、ドイツの哲学者であるフォイエルバッハの心理強制説という考え方が、罪刑法定主義の直接の基礎であるとも言われています。

この罪刑法定主義は、近代国家を支える民主主義や自由主義と密接な関係にあります。まず、なにが犯罪か(なにを刑法に記載するか)は国民が決定する、という考え方は国民の代表が決定権を持つという民主主義からの要請です。ここから、犯罪は法律に定められたものだけにとどまるという考え方、すなわち法律主義や慣習刑法の否定といった観念が導き出されます。一方、国民の権利、自由の保障のために犯罪は成文化されていなければならない、という考え方については、自由主義による要請です。この考え方からは、犯罪行為をした時点でそれが犯罪だと分かるようになっていなければならないということ、すなわち事後法の禁止や刑法の不遡及といった観念が導き出されます。

このように、罪刑法定主義は近代国家においてなくてはならない原則となっています。この原則がなかったどうなるかというと、刑法にない行為まで犯罪と見なされて牢屋に入れられたり、刑法になかった行為を犯罪とする条文を恣意的に追加して、ある人を逮捕したり、といった事態が起こりかねません。これでは近代国家の根幹である民主主義や自由主義といった考え方が揺らいでしまい、国家の安定性が失われることになるのです。罪刑法定主義は国家のあり方に関わる問題なので、その内容は国家の最高法規である日本国憲法の第31条にも、次のように規定されています。「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」。

罪刑法定主義に基づいて、日本では法律または条例においてしか、原則として刑罰を設けることはできないとされています。また、国民から見て何が犯罪行為なのかが一目で分からないような不明確な刑罰規定は、憲法に違反しており無効とされています。これは「明確性の理論」と呼ばれています。上で見たように刑法の規定は非常に具体的に書かれていますが、この理論に基づいたものだったのですね。

さて、法律や条例に書かれていない行為を犯罪と認めることは許されておらず、似たような規定を流用して犯罪を成立させること(類推解釈)も禁止されています。しかし、いくら法律の記述が具体的だと言っても、言葉の明確性には限界があるでしょう。また、現行法では対処できないような新しい犯罪行為も次々に出てきます。そういった場合、法律の適用に関しては裁判官の解釈はどうしても必要になってきます。このように、裁判官が一般的な国民も納得できるような形で法律を解釈し、犯罪を成立させることは「拡張解釈」と呼ばれ、これは類推解釈とは区別されるので許されています。

上のような、法律の文言の限界が具体的に現れた例として、古い事件を挙げてみましょう。明治時代に電気の窃盗事件が起こりました。刑法には窃盗とは「財物を窃取する行為」と定義されています。そして民法において「財物」とは「有体物」だとされています。一般的に、「電気」を「財物」や「有体物」とみなすのは無理があると思われます。しかし裁判所は、「物とは、有体物ではなく管理可能なものをいう」として、この事件を窃盗罪で処罰しました。これは犯罪における法律の拡張解釈の典型例として広く知られている凡例です。なお、現在の刑法には245条「電気は、財物とみなす」という規定が置かれているので、拡張解釈の余地もなく電気を盗むと窃盗罪になります。最近はスマホの充電を外でする人も多いですが、許可なく充電した場合は問答無用で窃盗容疑になりますのでご注意を。

状況は少し違いますが、面白い判例として「たぬき・むじな事件」というものもあります。大正時代に、禁猟の対象となっている「たぬき」を「むじな」だと思って捕獲した人がおり、この人は無実になりました。動物学においてはたぬきとむじなは同じ動物だとされていますが、事件のあった土地では両者は別の動物と考えられていました。この場合、たぬきを捕獲した人はそのたぬきをむじなという別の動物だと思って捕獲したので、その動物がたぬきであるという認識を欠くとして無罪とされたものです。

上で見たように、法律は言語で書かれている以上、その意味や解釈にはどうしても限界があるわけですが、それでも罪刑法定主義という原則が揺らがないよう、さまざまな努力がなされているのです。

罪刑法定主義においては、法律に犯罪として定められた行為だけが犯罪として処罰されるのですが、そのためにはさらに必要とされる要件が2つあります。1つめは、処罰に値するだけの害悪が存在すること。これは「違法性」と呼ばれています。2つめは、行為者に、その行為につき非難が可能であること。こちらは「責任」と呼ばれています。例えば、正当防衛の場合には違法性が欠けるとされ、処罰が否定されます。また、行為者の精神状態に問題があった場合には、責任能力の欠如があるとされ、処罰が否定されます。

これまで見てきたように、ある行為が「犯罪」だとされるためには、さまざまな要件を満たす必要があり、それを支えている原理が本日のメインテーマである「罪刑法定主義」なのです。罪刑法定主義が当然ながら法学の概念ですが、起源をたどればそれは自由や人権といった考え方とセットになっています。そして、自由や人権といった概念が確立してきたのは、フランス革命後のフランス人権宣言などがあってこそです。

刑事ドラマや弁護士ドラマを見ていると、そこにはさまざまな犯罪、さまざまな裁判が登場してきます。事件に関わる人々も、被疑者、被害者、目撃者、警察官、弁護士、検察官、裁判官など、さまざまです。なぜこれほどまでに多くの人々が刑事事件の解決に関わらなければならないのかというと、国家は事件を公正に処理しなければならないからですね。かつての社会のように、「こいつが悪い」と仲間内で勝手に処罰したりしては、深刻な人権侵害につながる可能性があるわけです。本当は罪を犯していない人までが、犯罪者として恣意的に裁かれることは良くありました。近世のヨーロッパにおける「魔女狩り」などがその典型です。現代では犯罪を裁判という形式で処理することでそのような事態を防止しているわけですが、そのために多くの専門家の関与が必要となっています。罪刑法定主義は、そのような適正に人を裁くためのシステムの根幹にある概念だと考えられるかもしれません。

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。