もう一つの崩壊①ユーゴスラヴィアという国家を振り返る

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こちらのブログでは、ソヴィエト連邦という国について、いろいろな角度から触れてきたように思います。戦後の社会をアメリカと二分した超大国であり、初めての社会主義国家であり、そして日本の隣国でもあったソ連の崩壊は、日本の人々に大きな衝撃を持って受け入れられました。1917年のソ連に続いて、世界にはさまざまな社会主義国家が誕生しました。ヨーロッパにはソ連の「衛星国」として、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、東ドイツ、ルーマニアなどの社会主義政権が成立しました。また、アジアにも中華人民共和国やベトナム、ラオス、北朝鮮などの社会主義国家が誕生しました。ヨーロッパのバルカン半島に存在したユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国もそのうちの1つです。ユーゴスラヴィアは1945年にソ連と同じくマルクス・レーニン主義を軸として誕生した社会主義国家でしたが、次第にソ連とは対立するようになり、独自の社会主義体制を持つ「第三世界」の国家として知られるようになりました。ユーゴスラヴィアは、ソ連崩壊後の1992年、ユーゴスラヴィア紛争という深刻な民族紛争ののちに崩壊することになりました。本日はこの「もう一つの崩壊」について、考えてみることにしましょう。

ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、1918年にバルカン半島の民族であるセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の国家として独立した「スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人国」が「ユーゴスラヴィア王国」に改称したのち、国王亡命後の1945年に社会主義国家となりました。「ユーゴラスラヴィア」とは「南のスラヴ人」という意味です。東ヨーロッパに住むスラヴ人は東、西、南の3地域に分かれており、東スラヴ人にはロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人が含まれ、西スラヴ人にはポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人が含まれています。

そして、南スラヴ人と呼ばれているのが、ユーゴスラヴィアを構成する民族である、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人・モンテネグロ人・スロヴェニア人・マケドニア人です。ユーゴスラヴィアの国旗(画像参照)は青・白・赤の3色ですが、これは「汎スラヴ色」と呼ばれ、連邦を構成する民族であるスラヴ人を象徴しています。中央に配置されている星は、社会主義を象徴する赤い星です。

彼ら南スラヴ人のうち、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人・モンテネグロ人は、セルビア・クロアチア語と呼ばれる言語を話し、スロヴェニア人はスロヴェニア語を、マケドニア人はマケドニア語を話します。これらの言語はすべて南スラヴ諸語と呼ばれ、それぞれ類似性を持った言語群です。宗教的には、セルビア人・モンテネグロ人・マケドニア人がキリスト教の正教を、クロアチア人・スロヴェニア人がキリスト教のカトリックを、そしてボシュニャク人がイスラム教を信仰しています。このように、ユーゴスラヴィアを構成する人々はさまざまな言語を話し、さまざまな宗教を信仰していました。そして、それこそが、国家を崩壊へと導いた紛争の発端ともなったのです。

ユーゴスラヴィアの面積は255 804 平方キロメートルで、日本よりは小さいもののイギリス本国よりは大きく、ヨーロッパ内では比較的大きな国だったことがわかります。国土はソ連のように複数の共和国に分かれており、それぞれの共和国が連邦の構成主体となっていました。ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国・クロアチア社会主義共和国・マケドニア社会主義共和国・モンテネグロ社会主義共和国・セルビア社会主義共和国・スロヴェニア社会主義共和国という6つの共和国が置かれていました。また、セルビア社会主義共和国のなかには、コソボ社会主義自治州とヴォイヴォディナ社会主義自治州という2つの自治州も置かれていました。それぞれの共和国と自治州に首都があり、セルビアの首都ベオグラードは、ユーゴスラヴィア全体の首都にもなっていました。

ユーゴスヴィアはソ連と同じく共産党一党独裁を軸とする国家でしたが、ソ連とは対立し、独自の路線を維持していました。経済体制としては「自主管理社会主義」という各共和国の自治権を保障する独自の経済制作を実施していました。このような独自の体制を支えていたのが、圧倒的なカリスマ力を誇り、ユーゴスラヴィア全土から支持されていた大統領のヨシップ・ブロズ・チトーです。クロアチア人の父とスロヴァニア人の母のあいだに生まれたチトーは、南スラヴ人の多民族国家ユーゴスラヴィアを象徴するような人物です。当初ソ連のスターリンに接近したチトーは、その後ソ連と決別し、アメリカなど西側の国家との協調も図るようになります。世界が東西二つの陣営に分割された冷戦時代において、このように独立を保つことは非常に難しかったのですが、チトーはそのカリスマ力・バランス力によって東側・西側どちらにも取り込まれずに「第三世界」の盟主として活躍しました。このような政策は「チトー主義」とも呼ばれています。

チトー主義下のユーゴスラヴィアは、社会主義国ではあるものの、ソ連や中国のような強権的な独裁国家ではありませんでした。かなり制限はありましたが、各共和国や自治州の権限の拡大やある程度の言論の自由が保障されていました。そのため、体制批判もある程度は許され、一方で民族間の対立を煽るような行動は制限されていました。このように、ユーゴラスヴィアは社会主義国のなかでもかなり異彩を放つ存在であったと言えます。

ただ、各民族がユーゴスラヴィアという1つの国として団結することは元来非常に困難なことでした。ユーゴスラヴィアを構成する各民族は同じ南スラヴ人ではあるものの、文化的にはかなり多様性がありました。例えば、スロヴェニアはオーストリアやイタリアといったヨーロッパの主要国と国境を接しており、かなり西欧的な地域でした。一方、ボスニアやマケドニアといった地域は旧オスマン帝国の支配下にあり、アジア的な雰囲気を色濃く残す地域です。宗教的にも、上述の通りキリスト教の正教、カトリックとイスラム教が入り混じっていました。特にボスニア・ヘルツェゴビナには、セルビア人(正教)、クロアチア人(カトリック)、ボシュニャク人(イスラム)が居住しており、争いが起こるリスクが存在していました。また、国家体制に目を向けると、セルビアの首都ベオグラードが連邦の首都にもなっていることからわかるように、連邦の権力をセルビア人が握っているという意識も強かったと考えられます。

上記のような懸念が存在するなかで、ユーゴスラヴィアに大きな転機が訪れます。それがチトー大統領の死です。1980年、チトーはスロヴェニアの病院で入院中に死去しました。チトーは終身大統領とされ、後継者たちが大統領評議会議長とう肩書で次々と就任したのですが、チトーのようなカリスマ性を発揮できる人材はいませんでした。そして、チトーという強力な指導者を失ったユーゴスラヴィアでは、以前から燻り始めていた各民族の民族主義が、いよいよ大きな火種になりつつありました。その火種はついに、ユーゴスラヴィア全土に広がり始めます。

チトーの死から11年目の1991年、ソ連崩壊の年、ついにユーゴスラヴィアで戦争がはじまりました。ユーゴスラヴィアでもっとも西欧に近く所得や民族の均一性の高いスロヴェニアが、ユーゴスラヴィアからの独立を宣言しました。そして、スロヴェニアとユーゴスラヴィアのあいだで戦争が起きたのですが、スロヴェニアとユーゴスラヴィアの中心であるセルビアはかなり離れていたため、この戦争はすぐに終結し、スロヴェニアの独立が確実となりました。スロヴェニアに続いてクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナもユーゴスラヴィアからの独立を宣言し、こちらも戦闘状態となりました。これらの戦闘はそれぞれクロアチア紛争、ボスニア紛争と呼ばれます。特に悲惨な紛争はボスニア紛争であり、ボスニアにはボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人が住んでいたため、それぞれの民族国家を確立させるために異民族を虐殺し、民族浄化が行われました。この民族浄化では、ある村が集落ごと虐殺の対象となるなど、凄惨な殺戮が何度も起きました。サラエヴォ包囲では、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエヴォがセルビア軍に包囲され、食料などの供給が完全に断たれる状態となりました。サラエヴォの街は爆破され、多くの住民が爆破に巻き込まれました。現在では、サラエヴォは美しい歴史的な街並みを取り戻しているものの、ビルや道路には弾丸や爆破の痕跡がかなり多く残されています。

以上のような数々の戦闘を経て、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアがユーゴスラヴィアから独立しました。そして、ユーゴスラヴィア内にはセルビアとモンテネグロだけが残存する形となりました。さらに、セルビア内ではアルバニア人を中心とする自治州だったコソボが独立を宣言したため、コソボ紛争が勃発。コソボ紛争にはNATOが介入し、実質的にはNATOとセルビア間の戦争となり、NATOの勝利により、コソボはセルビアから分離されました。セルビアはその後、国際社会から重い制裁を受けることとなりました。

ユーゴスラヴィアに残されたセルビアとモンテネグロは、2003年に「セルビア・モンテネグロ」という連合国家を形成します。しかし、モンテネグロは経済制裁を受けるセルビアのとばっちりを受ける形となり、やはり独立の方向へ進んでいきます。2006年、モンテネグロの国民投票では独立賛成が過半数を上回り、モンテネグロ独立が承認されました。この結果として、ユーゴスラヴィア連邦という国家は名実ともに完全に崩壊することになりました。

あまり知られていないユーゴスラヴィアの崩壊史、いかがだったでしょうか。ソ連でもユーゴスラヴィアでも、連邦国家崩壊を招いた1つの要因として「民族の独立」があります。ここで考えさせられるのは、民族とはなにか、という問いです。ユーゴスラヴィアの場合、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人、モンテネグロ人は同じ言語を話していました。しかし、宗教の違いや地域的な差異により、彼らはお互いを「異民族」と見なします。日本の場合、仏教の宗派による違いで対立したり、神道を信仰しているからという理由で争ったりすることはあまりありません。しかし、宗教の違いが民族の違いとなり、結果として虐殺にまでつながったユーゴスラヴィアの例は、胸にとどめておきたいものです。

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。