憲法のはなし③人権の私人間効力について

これまでにもブログでは、憲法というテーマでいくつか記事を書いてきました。憲法というテーマはどうしても抽象的になりがちで、普段の社会生活で直接役に立つような記事を書くのは難しくなります。というのも、憲法の3つの意義は「自由の基礎法」、「制限規範」、「最高法規」という抽象的なもので、憲法は私生活というよりは、国家の生命に関わるような内容となっているためです。しかし、憲法は国民の自由を保障するという重要な役割を負っていることも事実です。憲法学において、日本国憲法の内容は、「総論」、「基本的人権」、「統治機構」という3つのテーマに分けて論じられます。このなかでも、特に基本的人権は現代日本においてもっとも重要な概念だといえます。それゆえ憲法は、基本的人権の保障にかなりのウェイトを置いているのです。

憲法はさまざまな条文によって、日本における国民の人権を保障しようとしています。「人権を保障する」というのは言いかえれば、「人権を侵害させない」ということになるでしょう。そして基本的に、憲法が想定している人権の侵害は「国家」によって引き起こされるものです。だからこそ、憲法は「制限規範」として国家権力を制限することによって、人権侵害を予防し、人権を保障しているわけです。しかし、現代では状況が変わってきているように思われます。資本主義、新自由主義が成熟することによって、会社という民間の団体が国家に準ずるような強大な権力を保有するようになったためです。

最近では、「電通社員過労自殺事件」に代表されるように、ブラック企業による社員の権利の侵害が顕著となってきています。会社と社員の問題については、基本的に労働法が規定していますが、会社以外にも個人に対する集団の、あるいは個人に対する個人の人権侵害は多くなってきています。憲法は人権を保障するために存在しているのだから、例えば民間企業による個人への人権侵害も、憲法の条文を使って訴えれば、良いと考えることもできます。実際、このようなことは可能なのでしょうか。

結論から言うと、上記のように個人と民間企業、あるいは個人と個人の問題(これを「私人間(しじんかん)」の問題と呼びます)に憲法の条文を直接適用することは困難だとされています。このような問題について、すでに最高裁判所はいくつか結論を出しているのです。そのなかでも特に有名な判例として、「三菱樹脂事件」というものがあります。

この事件の原告であるAさんは東北大学卒業後、大企業である三菱樹脂に幹部候補として入社し、3か月の試用期間のあと本採用されるという条件で働いていました。入社試験の際、三菱樹脂はAさんに対し、学生運動に参加した経験があるかどうかを問い、Aさんは参加した経験はない、と回答しました。しかしその後、三菱樹脂の調べにより、Aさんが学生運動に参加していたことが明らかになったため、三菱樹脂はこの雇用契約がAさんの詐欺によるものだったとして、試用期間満了後、本採用を拒否しました。Aさんはこの処分を「三菱樹脂による本採用の拒否は被用者の思想・信条の自由を侵害するもの」として、憲法19条、14条の「思想・信条の自由」を根拠として提訴しました。1審、2審ではAさんの主張は認められたのですが、上告審で最高裁は「憲法14条や19条は、もっぱら国または公共団体と個人の関係を規律するもので、私人相互の関係を直接規律することを予定したものではない」と述べ、憲法の条文は個人と民間企業の関係には直接適用されないことが明確になりました。なお、憲法第14条1項、憲法第19条は以下のようなものです。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

この三菱樹脂事件は、人権の私人間効力に関する判例としてもっとも有名なものです。ここで決定されたのは、憲法の規定は私人間に直接適用されるのではなく、間接的に適用されるのだ、ということです。つまり、憲法の規定の適用が完全に否定されたわけではなく、間接的になら適用できる、という意味でもあるのです。ではどのように「間接的に」適用するのでしょうか。憲法の規定を間接適用するためには、あるものを媒介とする必要があります。そのあるものとは、「法律」です。法律はまさに私人間の関係を規定するために存在し、憲法の規定に基づいて制定されているので、法律を使えば、私人間の関係にも憲法の効果を及ぼすことができる、という考え方なのです。

憲法の保障する人権が私的な関係性において侵害される恐れのある場合は、立法によってそれを防ぐことが重要だとされています。立法は憲法の規定に従ってなされるものですから、当然憲法の理念は法律にも反映されていなければなりません。しかし、どうしても問題の発生に立法が追い付かない場合もあります。そのような場合には、下記の民法第1条や民法第90条が有効だとされています。

第一条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。

2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。

3 権利の濫用は、これを許さない。

第九十条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

民法第1条は「公共の福祉」、「信義誠実の原則」、「権利濫用」について定めたもので、具体的な規定が存在しないような事例で使われる、民法における「最後の砦」のような役割を担っています。民法90条は、いわゆる「公序良俗」について定めたもの。「日産自動車事件」という判例では、男女で定年が異なる会社の規定は憲法90条の公序良俗違反のために無効とされています。

本日は、人権の私人間効力という、法学のなかでも重要なテーマを扱ってみました。憲法は自分たちの生活から離れた遠い世界の話のように感じられてしまうのですが、私たちの生きる社会は基本的に憲法によって形作られているものです。そのような社会のなかで、憲法の条文をどのように利用できるのか、ということは非常に重要です。だからこそ、さまざまな人々が憲法に関する訴訟を提起し、有益な判例が積み上げられてきたのだと言えるでしょう。

憲法の条文を私人間の関係でどのように利用するか、という疑問から生じてきたのが間接適用説と直接適用説です。上記の通り、日本の最高裁は間接適用説の立場を取っており、これが現在の日本における人権の私人間効力の通説となっています。一方、憲法の規定を私人間に直接適用できるとする直接適用説という立場も、問題はありながら一定の支持を得ています。直接適用説の問題とは、第一に、私人間の関係を憲法で制限してしまうと、個人の自由が制限され、近代市民社会の基本原理である「私的自治の原則」が大きく損なわれてしまう、ということが挙げられています。人権を守ることは非常に重要ですが、それによって他の人の自由が制限されるのであれば、慎重に考え直す必要が出てくるわけですね。

 

 

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。