言語圏について④日本語圏

最近、アメリカのシンガーソングライター、アリアナ・グランデが日本語を使用していることに関して「文化の盗用」という批判を受けていることが報道されています。また、アリアナ・グランデの入れた日本語のタトゥーに関しても日本人から批判があり、本人はこれまで続けてきた日本語の勉強をやめるとまで発言しているようです。単に個人として日本好きだったアリアナ・グランデを攻撃した「文化の盗用」という考え方は、「高レベルの文化が低レベルの文化を搾取する」という植民地主義的な前提に立ったものであり、いかにもアメリカ的というか、多元文化主義の皮を被ったエスノセントリズムという感じを受けます。しかし、「文化の盗用」という概念については、社会学、文化人類学、文学などさまざまな角度から学術的に考察する必要のあるテーマであって、ブログにはふさわしくないので割愛しましょう。何よりも、アリアナ・グランデがどんな形であれ日本語に魅かれていた、という点は重要だと思います。何が彼女を魅了したのか、日本語話者としても気になるところです。

本日は、日本語が通用する地域、すなわち日本語圏について書いてみたいと思います。ところで「日本語圏」という言い方はいささか妙な感じがしますね。これまで取り上げてきたフランス、スペイン、ポルトガルは、歴史的に長期間に渡り広大な植民地を支配し、フランス語圏、スペイン語圏、ポルトガル語圏を形成したのでした。一方、日本は一時期大日本帝国として巨大な領土を持っていましたが、それは上記の国々と比較すると短い期間のことであり、日本語を世界に広めるまでには至りませんでした。日本統治時代にはさまざまな地域で日本語が使われていたはずですが、少なくとも、旧日本領がさまざまな独立国となって以後、日本語は表舞台から姿を消したと言って良いでしょう。

上記の経緯を踏まえると、現状では「日本語圏」と呼べるのは日本1国のみだと言えます。しかし、これも微妙な部分があります。というのも、日本には法定の公用語が存在しないためです。アメリカ合衆国など、公用語が存在しない国はいくつも存在します。しかし、アメリカでは当然のように、英語が公用語の地位にあると考えられています。日本も同様の状況にあり、憲法その他の法規に日本語が公用語である旨は記載されていないものの、「実質的に(デファクト)」日本の公用語は日本語だと考えられているのです。日本では琉球語、アイヌ語、中国語、韓国語、英語などさまざまな言語が話されていますが、国民のほとんどは日本語の話者であり、わざわざ公用語を明記するまでもなく日本語が通用している状態です。日本の人口は1億2667万人なので、おおむねこの人口=日本語圏の人口と言っても良いでしょう。

日本語には多くの方言が存在します。その中には、津軽弁のように通訳なしでは意思疎通できないような方言も含まれますが、それでも独立した言語ではなく方言と認識されています。これは、日本語の標準語が一つしか存在しないことと関係があるのでしょう。日本語の標準語は、日本語のうち、主に東京西部の方言から成立したものだとされています。日本人の多くが標準語は東京の言葉(東京弁)だと考えていますが、これは必ずしも事実ではありません。標準語は、東京弁のうち東京西部の山の手地域で話されていた山の手言葉という方言を中心に、さまざまな要素が組み合わさって成立した言葉です。東京弁のうち、東京東部で話されていた方言は江戸言葉と呼ばれ、標準語や山の手言葉とは異なる方言とされています。

上記のように、日本語の標準語は一種類しかなく、それは東京西部の方言を再構成したものです。実は、日本語ほどの話者人口を持ちながら、標準語が一種類しかないというのは特殊です。例えば、これまでにも書いたようにポルトガル語にはイベリア・ポルトガル語とブラジル・ポルトガル語という2つの大きな標準語が存在し、フランス語にはフランス語とケベック・フランス語という標準語が存在します。日本語は話者数が多いものの、実質的に日本1国のみで話される言語であるため、このように1種類しか標準語が存在しない状態となっています。

日本語圏は日本1国だと言い切りましたが、日本語が使用される地域は世界にも多くあります。戦前日本の統治を受けた台湾や韓国では、日本語話者が比較的多く存在しています。とはいえ、日本統治時代を経験した世代をすでに少なくなってきており、現在日本語を話す人々の多くは日本人観光客相手の事業を行っていたり、日本留学経験があったりする人々だと考えられます。世界で唯一日本語を公用語としている地域として良く名前が挙がるのが、太平洋のミクロネシア地域にある国、パラオのアンガウル州です。戦前、パラオは委任統治領として日本の統治下にあり、日本語を含め日本の文化が移植されました。日本の敗戦後はアメリカの信託統治領となり、1994年に独立国となりました。日本語を公用語としているものの、日本語話者はほとんど存在しないとされていますが、象徴的に日本語を公用語としているという意味では、興味深い地域です。

日本語は、日本人が移民として渡った先でも日本人コミュニティで使用されています。戦前、日本からアメリカ大陸へ多くの移民が渡ったことは有名です。特にブラジルのサンパウロやアメリカのロサンゼルスには日本人街が形成されています。ブラジルやアメリカにおける日本人街も、日本語圏の一部であると考えることは可能でしょう。

日本語が独占的な地位を占める国は日本だけであり、その意味で日本語圏と言えるのもまた日本という国のみだと言うことができます。しかし上記の通り、日本語が使用されているのは日本だけではありません。台湾、韓国、パラオ、アメリカ、ブラジル、など部分的、地域的に日本語が使用されている場所は存在し、これらの地域も広義の日本語圏に含めることは可能だと考えられます。

言語圏という考え方は、これまで国家という領域を1つの根拠として考えられてきましたが、今後このような傾向は変化していくでしょう。というのも、グローバル化、多文化主義が進展していくと、1つの国に1つの文化が存在している、という20世紀のナショナリズム時代の前提は崩壊するためです。現状、日本をはじめ多くの国々はナショナリズムに拘泥し続けているわけですが、このような状況も不可避的に変化していきますし、崩壊は免れないものです。アメリカやブラジルの中に英語圏やポルトガル語圏とともに日本語圏が併存し、一方日本のなかに日本語圏とともに英語圏やポルトガル語圏が併存する、という時代は近づきつつあるのでしょう。日本語が話される外国の一部地域を日本語圏と認定することにより、このような考え方の根拠にもなるように思われます。私たちは、日本語が唯一日本で通用する言語である、という前提からいまだ抜け出せずにいるため、日本語を客観視することが難しくなっていますが、日本語は世界の諸言語のうちの1つであり、他の言語と常に併存する関係にあるのでしょう。

これまで取り上げてきた言語圏という考え方は、基本的に植民地主義時代に根差し、ナショナリズム時代に確立したものですが、21世紀においては、このような概念自体がなにか古臭いものになりつつあるのかもしれません。

ABOUTこの記事をかいた人

武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。