西洋詩鑑賞入門①日本におけるヨーロッパ詩

「詩」と聞いたとき、みなさんはどのようなイメージを持つでしょうか。文学作品のなかでも詩というジャンルはとっつきにくいというか、なんとなく芸術家肌の人が好む一人よがりな文学というイメージがあるかもしれません。歌の歌詞を思い浮かべる人も多いと思いますが、日本語では歌に載せるテキストには「詞」という漢字が当てられることが多く、純粋な文学作品としての「詩」とは区別されているようです。

詩は「ポエム」と呼ばれることもあります。「ポエム」は「詩」よりもさらに胡散臭く、ネタの香りのする言葉ですね。政治やビジネスなどを胡散臭い言葉で語ることを「ポエム化」と呼びます。「ポエム化」という言葉は、「ポエム」という言葉が日本語において持つネガティブなイメージを前面に利用したマスコミ的な用法です。このように「詩=ポエム」は、日本社会においては胡散臭さや非論理性の代名詞となっているようです。

詩の定義には諸説ありますが、基本的には韻律を持つ文学(=韻文作品)が「詩」と呼ばれることが多いです。この定義では日本語の和歌や俳句も「詩」のジャンルの1つなのですが、日本語ではこれらを「詩」と呼ぶことはあまりありません(「詩歌」と呼ぶことは多いですが)。これは「詩」がもっぱらヨーロッパの詩を指すのに使われてきたためでしょう。上記のようにネガティブな意味合いの「ポエム」も、おおむねヨーロッパ詩やその影響を受けた日本語の文学作品を指すものと考えられます。

私は詩がこれほどまでに貶められるようになったのは、日本がヨーロッパ詩を適切な形で輸入することに失敗したためだと考えます。ヨーロッパにおいて、詩は音楽を含めあらゆる芸術形式の始原ともいえるもので、日本のように詩が無碍に扱われることはありません。むしろ、ヨーロッパでは教養ある階級の人であれば国民詩人の詩を暗唱できるのが普通です。イギリスではシェイクスピア、ドイツではゲーテ、ロシアではプーシキンの詩を知らないのは恥ずべきことです。では、なぜ日本はヨーロッパ詩を上手く輸入できなかったのか。そこには翻訳の問題があります。

「詩」と聞いたとき、多くの日本人はそれを「短い文学作品」だと思うことでしょう。実はこの定義自体が大きく間違っています。詩はあくまで韻文であって、別に短い必要はありません。しかし、ヨーロッパ詩の日本語訳では、この「韻文」という要素が抜けてしまっているのです。ヨーロッパの多くの国では、詩には厳格な形式が存在していました。詩はその形式に沿って作られているのです。特に重要なのは韻律であり、韻律は各言語の特性に従って改良されてきた独自の韻律が存在します。日本語にも韻律は存在し、五七五調などと呼ばれるものがそれです。ヨーロッパの韻律は、多くがアクセントの位置や音節の数によって構成されています。この韻律こそ、ヨーロッパ詩の中核なのですが、これを日本語の翻訳で再現することは非常に難しくなっています。過去にはさまざまな翻訳者がヨーロッパ詩の日本語への翻訳に挑戦し、この韻律を日本語で表現しようと試みたのですが、最終的に上出来と言える翻訳が生まれることはありませんでした。結果として、日本語に翻訳されたヨーロッパ詩は韻文としての特性をそぎ落とされ、文章の内容だけが翻訳されることになりました。このような経緯があって、ヨーロッパ詩の日本語訳は詩の芸術的価値の中核ともいえる韻律を欠いているため、正当な評価を得ることが難しくなってしまったのです。

では日本の翻訳者や文学者が無能だったのか、というと決してそんなことはありません。問題は研究者の質ではなく、ヨーロッパの言語と日本語の音声的な相違だと考えられます。詩に関してさまざまな論文を発表した言語学者のロマン・ヤコブソンは「詩はその定義からして翻訳不可能である」と書きました。つまり、詩は言語ごとに異なる韻律があるからこそ詩として存在できるが、その韻律自体を他の言語への翻訳で再現することができない以上、詩を翻訳することは不可能だと述べているのです。これは言い得て妙だと思います。

詩が翻訳不可能なのであれば、やはり詩を理解したり味わったりするためには、原文に触れる必要があるのではないでしょうか。ヨーロッパ詩を原文で味わう、というのはいささかハードルが高いことだと感じるかもしれません。しかし逆に立場で考えてみましょう。日本語の和歌を英訳で読んで、果たして和歌の良さが理解できるでしょうか。おそらく不可能だと思います。理解できたとしても、それは和歌の要素のごく一部にすぎないでしょう。同じことがヨーロッパ詩にも言えるわけです。

ヨーロッパの韻律、と書いてきましたが、それは実際どのようなものなのでしょうか。日本語の和歌を喩えに出してきたことから推測できるように、ヨーロッパ詩の韻律もまた、音節の数などが重要になってきます。日本語には「モーラ(拍)」という独特の音の長さの単位が存在し、和歌の韻律はこのモーラによって決まっています。

一方、現代ヨーロッパの多くの言語ではモーラの代わりに音節が重要な要素となります。音節(シラブル)とは、言語の音の区切りのことです。1音節は1つの母音、または母音と子音の組み合わせから成ります。また、音節にはアクセントのある音節とない音節に分かれます。例えば、英語の「animal」という名詞は「an(母+子)」、「i(母)」、「mal(子+母+子)」という3つの音節に分かれ、さらにアクセントは最初の「an」という音節に置かれています。

アクセントのある音節ない音節を2~3つほど組み合わせたものを「詩脚」と呼びます。さらに、この詩脚を1~複数組み合わせたものを「詩行」と呼び、詩行が韻律を構成していきます。と、文章で説明するとわけがわからなくなりますので、具体例を見て行きましょう。以下の詩は、シェイクスピア『ハムレット』のもっとも有名な台詞の一つです。

To be |or not| to be,| that is |the ques|tion.

(訳:生きるか死ぬか、それが問題だ)

上の例文では、わかりやすいように下線や縦線をいれました。ここでは文の意味は重要ではないので、訳は無視してかまいません。原文の形だけ見てください。

小さい単位から見て行きましょう。まず、この文章には「to」や「be」など音節が11個あります。これらの音節が2つずつ組み合わさって縦線(|)で区切った詩脚を構成しています。組み合わせの法則は、アクセントのない音節(「to」や「or」)のあとに、アクセントのある音節(「be」や「not」)が置かれるというものです。この法則に基づいて、10個の音節が5個の詩脚を形成しています(1音節は余っています)。アクセントのない音節を「弱」、アクセントのある音節を「強」に置き換えると、上の台詞は下記のようになります。

弱 強|弱 強|弱 強|弱 強|弱 強|弱

このように、弱い(アクセントない)音節と強い(アクセントのある)音節からなる詩脚を5つ組み合わせた詩行によって、この文は書かれています。このような韻律を「弱強5歩格」と呼び、英語、ドイツ語、ロシア語などの詩では非常に良く使われています。実は、シェイクスピアの多くの作品はこの弱強5歩格という韻律で書かれています。シェイクスピアを楽しむためには、韻律の知識もあった方が良いでしょう。

弱強格はイアンボスとも呼ばれ、古くはギリシア、ローマから使われてきた韻律です。日常的なゆったりとしたリズムを感じさせる韻律として知られており、荘厳な詩よりは身近なテーマを唄った詩に使われることが多いです。

ABOUTこの記事をかいた人

武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。