文字について①ラテン文字とキリル文字

今この文章を読んでいるあなたは、「文字」という記録媒体を通じてその内容に触れています。文章が文字で書かれているのは当然のことですが、文字という発明は、実は人類に普遍なものではありません。日本で話されているアイヌ語は伝統的に文字を使わない言語でした。アイヌ語が特殊なわけではなく、世界の多くの言語は文字を持たない言語だと言われています。日本語もかつては文字を持たない言語でした。そのため、中国から輸入した漢字による日本語の表記を試みるようになり、それが変化してひらがなやカタカナが派生しました。このように、文字を持つことは言語にとって特殊な現象であり、それゆえに文字はその言語や民族の象徴と見なされることが多くあります。朝鮮語を表記するための文字である「ハングル」は、「ハン(偉大なる)グル(文字)」を意味するとされており、独自の文字の存在の誇らしさが名称にも反映されています。

上記のように、文字は言語のなかでも特殊な現象として捉えることができますが、現在では多くの人が文字を読める社会になりました。特に、英語やフランス語といったヨーロッパの言語が広まるにつれて、世界の多くの地域でそれを表記する文字「ラテン文字」が通用するようになりました。ラテン文字は「English」のような文字ですね。ラテン文字は日本語では「ローマ字」とも呼ばれますが、「ローマ字」は日本語表記のためのラテン文字を指すことが多く、文字の種類としては「ラテン文字」と言うことが多いです。ラテン文字の兄弟ともいえる文字として「キリル文字」というものがあります。これは「Русский язык」のような文字です。キリル文字はロシア語など東ヨーロッパやユーラシア大陸で広く使われる文字で、日本ではなじみがないものの、世界的に通用する文字の1つです。ユーラシア大陸の文字は、(中国や日本など漢字の国を除くと)西部がラテン文字、東部がキリル文字の世界になっています。では、ラテン文字とキリル文字はどのように発生し、使用領域を拡大していったのでしょうか。

ラテン文字とキリル文字は兄弟のようだと書きました。つまりこの兄弟には親がいて、それはギリシア文字です。ギリシア文字は「Ελληνικά」のような文字です。日本で目にする機会があるとすれば、数学や物理学などで記号として使うことがあるくらいでしょうか。ご存じの通り、古代ギリシアはヨーロッパ文化の源泉ともいえる場所であり、文字もギリシアが産地となっているのです。ギリシア文字自体はフェニキア文字という文字から派生していますが、遡りすぎると収集がつかなくなるので、ギリシア文字の起源については割愛します。

ラテン文字は本来、ラテン語を表記するための文字です。ラテン語はギリシアの後にヨーロッパで栄えたローマ帝国の公用語であり、文明的な言語としてギリシア語と並ぶ地位を占めていました。ラテン文字はイタリア半島のエトルリア人の文字(エトルリア文字)の影響を受けて、紀元前にギリシア文字から作られました。ローマの東西分裂後、西ローマではラテン文字が使われ、やがてゲルマン人などにも広がっていきました。結果として、ラテン文字は西ヨーロッパのカトリック・プロテスタント国を中心に広く使われるようになりました。ラテン文字を使用する西ヨーロッパの国々(フランス、イギリス、スペイン等)は植民地を持っていたため、植民地の言語の表記にもラテン文字が使用されるようになり、ラテン文字の使用は世界に拡大していきます。

キリル文字は、スラヴ語(現在のロシア語やブルガリア語、チェコ語等)によるキリスト教布教のためにギリシア文字から作られました。9世紀に東ローマ帝国(ビザンツ)のキュリロス(キリル)とメトディオス(メフォディ)は、モラヴィア王国(現在のチェコ)からキリスト教の伝道を依頼された際、スラヴ語を表記するための文字を開発しました。その文字は「グラゴル文字」と呼ばれています。グラゴル文字はキリル文字よりも複雑で難解な文字であったため、後にギリシア文字により近い文字として作られたのがキリル文字です。キリル文字が創られたのはブルガリア帝国(現在のブルガリアやマケドニア)であったとされています。スラヴ人に対するキリスト教布教がキリル文字の目的であったため、やがてキリル文字は東ローマ帝国の国教であった正教とともにスラヴ人の住む東ヨーロッパで広まっていきました。

上で見てきたように、ヨーロッパにおいてラテン文字は西ヨーロッパのカトリック・プロテスタント圏、キリル文字は東ヨーロッパの正教圏という棲み分けがなされていることが分かります。西ヨーロッパの国々は帝国主義時代に世界中へ進出し、その結果としてラテン文字は世界でもっとも使用頻度の高い文字となりました。一方、キリル文字圏のロシアは海洋進出を行わず、主に陸路で領土を拡大していったため、キリル文字がユーラシア大陸外で広まることはありませんでした。

ラテン文字を使用する国々は、すでに書いた通りヨーロッパにとどまらず世界中に存在しています。19世紀以前にラテン文字が使われていた言語はフランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などのロマンス諸語、ドイツ語、英語、オランダ語などのゲルマン諸語、チェコ語やポーランド語などのスラヴ諸語、ラトビア語やリトアニア語のなどのバルト諸語など多岐に渡ります。英語やスペイン語が広まったアメリカ大陸やアフリカ大陸でも当然ラテン文字は広く使われています。さらに、ベトナムやインドネシア、マレーシアといったヨーロッパ諸国の旧植民地においても、ラテン文字で現地語を表記しています。かつてベトナムは漢字文化圏であり、ベトナム語も漢字で表記されていましたが、これもラテン文字に取って代わられてしまいました。

キリル文字を使用する国は、ラテン文字の国ほど多くはないものの、ユーラシア大陸に広く散在しています。その筆頭はスラヴ諸語を話す国々のうち、正教が多数を占める地域です。具体的には、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、セルビア、ブルガリア、マケドニア、モンテネグロが挙げられます。さらに、日本人にも身近な国であるモンゴルでも、キリル文字が使われています。モンゴル語にはモンゴル文字という文字が存在しているものの、モンゴルはソ連の影響を強く受けたため、現在に至るまでキリル文字の使用が続いています。また、かつてのソ連加盟国であるウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャンなどではキリル文字が使用されていたものの、現在ではラテン文字に切り替えています。一方、同じく旧ソ連のカザフスタン、キルギス、タジキスタンなどでは未だにキリル文字が使用されています。カザフスタンはラテン文字への切り替えを進めていますが、完全な切り替えには至っていないようです。

本日は世界的に使用されている文字であるラテン文字とキリル文字をテーマにしてみました。文字は記録媒体なのですが、そのツール的側面だけに着目すると、文字の持つ文化的特性を見落とすことになってしまいます。ラテン文字、ギリシア文字ともにヨーロッパに起源を持ち、ギリシア文字を親とする点で共通しています。また、ラテン文字がカトリック・プロテスタント圏で、キリル文字が正教圏で広まったように、文字と宗教の密接な結び付きを示す例でもあります。

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。