語源から意味をたどる③法・権利・正しさについて

以前こちらのブログでは、「マイノリティ」や「インテリ」といったカタカナ語の意味を、語源という観点から考察することで、その意味を再定義することを試みました。このような抽象的な意味を持つ外来語は意味にブレが生じやすく、正確な定義をすることは難しいのですが、何らかの議論をするうえでは用語の定義が重要となるため、上記のような考察を試みたのです。

さて、語源から用語の意味を考えるという手法は、必ずしもカタカナで表記されるような外来語の意味の定義にのみ有効なわけではありません。現在使われている日本語の単語の多くは、明治維新以降の社会の近代化に伴って、ヨーロッパの諸言語(英語・ドイツ語・フランス語等)から日本語に翻訳されたものです。一度翻訳してしまうと、それがもともと何語由来だったのか、どのような単語を翻訳したものなのか、という単語の歴史性は失われてしまうため、その単語が原語においてもっていた意味を推定するのは難しくなります。だからこそ、改めてこういった翻訳語の語源を辿り、意味を再定義する必要性がでてくるわけです。

本日は、明治以降にヨーロッパ語から翻訳され、社会的に重要な意義を帯びてきた単語として「法」・「権利」・「正しさ」という単語について考察したいと思います。明治維新以降、日本はヨーロッパ、特にドイツとフランスに倣い法典を整備し、法治国家としての歩みを始めました。この過程で、国家や法律に関するさまざまな用語をドイツ語やフランス語などから日本語へ翻訳する必要も生じてきました。もともと日本語に存在していた語彙を訳語として使った場合もあれば、漢字を組み合わせることで新しい語彙(和製漢語)を生み出す場合もあったようです。「法」や「権利」といった用語も、このとき法律用語として使用されるようになったものです。

近代化以降の日本において、「法」という言葉は道徳とは区別される社会規範を指すものとされています。「法」は英語に訳すと「law」となります。一方、「権利」はある行為をすることができる資格、といった意味を持つ言葉です。「権利」は英語に訳すと「right」となります。

「法」や「権利」といった概念は、ヨーロッパにおいては普遍的な概念であり、その起源は大まかに言えばローマにまでさかのぼります。ローマの公用語であったラテン語では、実は「法」と「権利」は「ユースius」という1つの単語で表わされます。「jus」はフランス語や英語の「正義justice」という単語の語源になっており、「正しさ」という意味も持っています。実は、ヨーロッパの言語で「法law」と「権利right」を別々の単語で言い表すのは英語くらいのものです。フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語など他のヨーロッパの言語では、ラテン語の伝統に則し、「法」・「権利」・「正しさ」をすべて1つの単語で表わすのです。ラテン語の「ius」は、フランス語では「ドロワdroit」、ドイツ語では「レヒトRecht」、イタリア語では「ディリットdiritto」、スペイン語では「デレチョderecho」、ロシア語では「プラーヴァправо (pravo)」となります。

上記のように、ヨーロッパの多くの言語で「法」・「権利」・「正しさ」が同じ単語により表わされるのは、法や権利の意義を考えるうえで非常に重要なことです。なぜなら、近代国家においては、「法」や「権利」とは「正しい」ことなのだ、という前提があるためです。多くの国民が「法」や「権利」を「正しい」ものとして承認しているからこそ、国家のなかでそれが守られ、保障され、国家や国民生活の安定につながるわけです。

19世紀ドイツを代表する法学者イェーリングは『権利のための闘争DER KAMPF UM’S RECHT』において、権利の侵害はその権利の目的物のみならず権利者の人格までも脅かすものであり、たとえ損をしたとしても権利を侵害された人はその権利のために闘わなければならない、と主張しています。ここでいう「闘争」とは、権利を認めさせるための訴訟を指します。権利のための闘争を行うことは、自己の権利を保存するためだけでなく、権利の確立を通して法を生成することにつながり、そしてそれによって国家や社会が安定する、という考え方です。人は無意識のうちに法と権利に守られているのですが、それを維持する努力をしなければ、それらは自然に衰退してしまい、最終的には人々の権利は失われます。そのため、権利のための闘争は自分自身だけでなく、国家や社会に対する義務でもあるのだ、とイェーリングは述べています。自分を守ってくれる法と権利に対し、闘争というメンテナンスを行うことで恩返ししよう、という発想なのです。

上記のように考えると、「法」・「権利」・「正しさ」という概念が不可分なものであることがわかるでしょう。もはや、これらの概念が別々の単語で表わされることの方が不自然だと感じるかもしれません。しかし残念ながら、日本語ではこれらの概念はすでに3つの単語に分かれており、意味的には分断が起こってしまっています。「権利」という概念に、日本人はどのようなイメージを抱いているでしょうか。必ずしもそのイメージは、ポジティブなものではないでしょう。「権利」に似た用語として「利権」というものがあります。「利権」とは、「政府活動から引出される不当な利益」などを差し、まさに「不正」を意味するのです。そして、このイメージは「権利」という言葉の意味にも少なからず影響しているように思われます。本来「正しさ」という意味を持つ「権利」という言葉が、「不正」という真逆の意味を帯びてしまっていることは、社会的にかなり大きな損失であるといえるでしょう。

上記のようなイメージによって、日本語では「法」は社会的な正しさという意味を留めているのに対し、「権利」は私的な権益のような意味を帯びてしまい、これらの概念の持つ不可分性は分断され、損なわれてしまっているのです。日本は訴訟嫌いの国だと言われ、自分自身の権利を主張することに消極的だというのが通説ですが、これは権利の主張が法の生成・発展につながり、ひいては社会の安定にも貢献するのだ、という考え方が浸透していないためでしょう。

本日は、「法」と「権利」という社会的に重要な用語の意味を、語源を辿ることで明らかにしてきました。上述の通り、ラテン語に由来する「法」や「権利」という概念は本来1つの単語によって表わされるものであり、これらの概念は不可分なものであると言えます。日本社会において、「法」・「権利」・「正しさ」という概念に一体感がすでに失われており、「権利のために闘う」ということが社会悪であるかのように捉えられていることは、それ自体が社会の不安定化を招くことになり、国家的な危機の発端にもなると考えられます。

もちろん、すでに日本語で長い間使われている「法」や「権利」という言葉を改めて統合し、それを浸透させるのは難しいでしょう。しかしこれらの概念の不可分性を改めて認識することは、日本社会の持続可能性や発展を追求するうえでは不可欠なことだと言えます。そこで重要なのは、やはり言葉や概念の起源を考えることでしょう。私たちの生きる現代日本社会の輪郭を作る法は、ギリシア・ローマ時代から連綿と続いてきているということ。それを改めて認識することが、「法」と「権利」の有機的な不可分性を復活させ、国家の安定化をもたらすでしょう。

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。