言語について⑬ユダヤ人の言語(ヘブライ語・イディッシュ語・ラディーノ語)

このブログでは、すでにさまざまな種類の言語や言語に関連する概念を取り上げてきました。すべての内容が正しいとは限りませんし、また最新の理論を扱うことができているとは限りませんが、それでも多くの情報をこちらのブログ内に集約することはそれだけで一定の意義があるのではないかと考えています。さて、ブログではまずヨーロッパの言語を扱い、そこからアジアの言語にまで手を伸ばしていく、という書き方をしてきました。これには理由があり、言語学、特に比較言語学や言語の系統分類はヨーロッパで起こった学問であり、その研究対象も最初はヨーロッパの言語であったため、これらの言語に関しては情報が豊富に存在しているのです。とはいえ、まだまだヨーロッパの言語についてもこのブログ内で書き尽くせたとは到底言えません。

日本人の多くは、「民族」、「言語」、「人種」や「血縁」は不可分のものだと無意識に思いこんでいるようです。「日本人=親が日本人で日本語を話す日本国籍の人物」という定式は、最近になってようやく見直されつつあるように思われます。しかし世界的には、このような単一民族神話は一般的ではありません。ユダヤ人はその典型例かもしれません。ユダヤ人はユダヤ教の信者であることが定義の根幹にあり、「ユダヤ人」という「人種」が存在しているわけではありません。さらに、ユダヤ人の話す言語は実はさまざまであり、同じユダヤ人であってもユダヤ系の別の言語を話している、ということがありえます。というわけで、本日はユダヤ人の言語であるイディッシュ語、ヘブライ語、ラディーノ語について書いてみたいと思います。

ユダヤ人は古代において離散民(ディアスポラ)となり、ヨーロッパを中心に世界各国に居住していました。特に大規模な手段として知られているのが、アシュケナジム(東欧系ユダヤ人)とセファルディム(スペイン系ユダヤ人)です。このうちアシュケナジムはドイツ人の強い影響を受け、イディッシュ語という言語を話していました。イディッシュ語はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派西ゲルマン語群に分類され、ドイツ語と非常に近い関係にある言語です。しかし、ドイツ語がラテン文字で表記されるのに対し、イディッシュ語はヘブライ文字で書かれ、ユダヤ教に関する語彙が多いなど、言語として顕著な違いがありました。アシュケナジムは現在のポーランド、ロシア、リトアニア、ドイツなどに住み、東欧社会で商人や高利貸しとして主要な地位を占めていました。20世紀初頭までにイディッシュ語の文学作品が書かれるなど、イディッシュ語も徐々に文化的地位を獲得しつつあったと言えます。ドイツでナチス政権が成立すると、アシュケナジムはホロコーストの対象となり、多くの人々が殺戮されました。その後、多くの東欧系ユダヤ人がイスラエルへ移住したり、共産化した東欧各国に同化したりしたため、イディッシュ語の話者は激減しました。現在では、イディッシュ語の話者数は150万人程度にまで減少しています。

現在ユダヤ人の言語として広く知られているのがヘブライ語でしょう。ヘブライ語はディアスポラになる前の古代ユダヤ人が話していた言語であり、ユダヤ教の教典である『聖書(タナハ)』が書かれた言語でもあります。しかし、ユダヤ人はディアスポラのあとイディッシュ語やラディーノ語を話すようになり、ヘブライ語は日常会話には用いられず教典の言語としてのみ残りました。このように一度は死語になってしまったヘブライ語ですが、19世紀にヘブライ語を日常的に話す人物が現れはじめます。そして、1948年にパレスチナに建設されたユダヤ人の国イスラエルでは、ついにヘブライ語が公用語とされ、多くの人々がヘブライ語を日常語として用いるまでになりました。ヘブライ語は系統的にはアフロ・アジア語族セム語派に含まれる言語で、イディッシュ語とはまったく系統が異なっています。イスラエルには「ウルパン」と呼ばれるヘブライ語の教室が開設されており、他国からイスラエルに「帰還」したユダヤ人に対し、ヘブライ語を教授しています。現在ヘブライ語の話者は約900万人とされています。一度は口語としてほぼ死語のような状況にあった言語が、ここまで話者数を回復した例は、世界でもヘブライ語のみだと言われています。見方を変えれば、ヘブライ語というユダヤ人の共通言語が復活したことによって、ユダヤ人ディアスポラの言語であったイディッシュ語やラディーノ語といった言語はその役割を失い、これらの言語の話者数は激減したと言うこともできるでしょう。いずれにせよ、ヘブライ語の復活はシオニズムという運動の驚異的な成果を物語るものです。

上記の通り、東欧のユダヤ人をアシュケナジムと呼ぶのに対し、スペインなどイベリア半島のユダヤ人はセファルディムと呼ばれています。そして、彼らセファルディムの話してきた言語が、ラディーノ語です。イベリア半島は地政学的にかなり複雑な歴史を辿ってきた地域です。ロマンス諸語(スペイン語やポルトガル語)を話すキリスト教徒が住んでいたイベリア半島は、8世紀以降にイスラーム系王朝の支配を受けるようになり、アラビア語を話すイスラーム教徒も居住するようになりました。結果として、中世のイベリア半島にはキリスト教徒、イスラーム教徒、そしてユダヤ教徒が共存していたとされています。セファルディムの話すラディーノ語はインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に分類され、スペイン語と非常に良く似た言語だとされています。15世紀にイベリア半島でレコンキスタ(キリスト教徒の国土回復運動)が完了すると、イスラーム教徒とともにユダヤ教徒までもが半島を追放されることになってしまいます。そして、セファルディムはイベリア半島からイタリア、バルカン半島、北アフリカなどに再度散逸することになりました。しかし、これらの移住先でもセファルディムはラディーノ語を話し続けたため、なんと現在に至るまでラディーノ語は健在しているのです。現在ラディーノ語の話者は15万人程度と見積もられており、イスラエルを中心に話されているとされます。ラディーノ語はイディッシュ語よりもユダヤ色が薄く、むしろ15世紀以前のスペイン語の特徴を留めていることから、スペイン語研究にとっても重要な資料だと言われています。

本日は、イディッシュ語、ヘブライ語、ラディーノ語というユダヤ系の主要言語を取り上げました。実は、ユダヤ人は居住地ごとにさまざまな言語を話しており、必ずしもこれら3つの言語を話したわけではなく、ユダヤ人の言語の総称として「ユダヤ諸語」というものがあるほどです。19世紀末から20世紀初頭にかけてのシオニズム、そしてその帰結としてのイスラエル建国は、ユダヤ人の言語に大きな変革をもたらしました。ヘブライ語の復活によって、ユダヤ人に共通の言語が生まれ、イディッシュ語やラディーノ語といったヘブライ語以外のユダヤ系言語が衰退することになったのです。それでもやはり、ユダヤ人がさまざまな言語を話しているという事実に変わりはありません。ユダヤ人の言語についての考察は、「民族」という概念を定義するうえでも重要な示唆を与えてくれるでしょう。

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。