言語について⑰サンスクリットについて

こちらのブログでは、これまで言語についてさまざまな情報を扱ってきましたが、そのなかにはラテン語やギリシア語といった、いわゆる古典語も含まれていました。ラテン語やギリシア語がギリシア・ローマ文明やキリスト教文化の拡大とともに世界に広まった言語であるということは、すでに確認しました。このような言語は口語としてよりも文語として世界中で使われるようになったという経緯があります。ヨーロッパにおけるギリシア語やラテン語と同様の地位を占めた言語として、アジアのサンスクリットや漢文(古代中国語)が存在します。特にサンスクリットは、宗教的にも重要な意義を持つ言語であり、ギリシア語やラテン語と似た立ち位置にありました。とはいえ、現代の日本ではサンスクリットについてそれほど知られていないように思われます。漢文は高校の授業で習いますし、大学受験の科目にもなっています。一方、サンスクリットについては文学部など一部の学部に入らない限り学ぶ機会がありません。というわけで、本日はサンスクリットについて主として言語そのものの性質に着目しながら書いていきたいと思います。

サンスクリットは日本では「梵語」とも呼ばれ、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教などの典礼言語として知られています。日本では特に、仏教の言語として非常に重要な存在となりました。言語学的には、サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族インド・イラン語派に属する言語であり、系統的にはヒンディー語やペルシア語だけではなく、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語などヨーロッパの諸言語とも関係があります。「アジアの言語」というイメージのサンスクリットですが、中国語や日本語よりはヨーロッパの諸語にかなり近いのです。サンスクリットはデーヴァナーガリー文字や梵字と呼ばれる文字で記載され、紀元前5世紀から紀元前4世紀頃にその文法が確定されたとされています。

文法的に見ると、サンスクリットは名詞の性・数・格の区別を有し、インド・ヨーロッパ語族の古い性質を残しています(古代語なので当たり前ですが)。性とは「男性」、「女性」「中性」などにより、名詞を区別するためのカテゴリーです(人間や動物の性別やジェンダーとはまったく別の概念です)。数は単数や複数の区別を意味します。格はインド・ヨーロッパ語族に特徴的な、名詞の語尾の変化により意味を区別する性質のことで、日本語の「てにをは」に近いものです。サンスクリットには名詞の格が8種類

存在し、主格、呼格、対格、具格、与格、奪格、属格、処格があるとされています。書く変化は時代が下るにつれて失われる傾向にあり、ドイツ語の4格、ロシア語の6格、ラテン語の7格よりもサンスクリットの方が多くなっています。

このような性・数・格の区別は、ラテン語やロシア語などに保存されていますが、英語やフランス語ではほとんど失われています。ヨーロッパでもっとも古い形質を残している言語はリトアニア語だとされています。リトアニア語は旧ソ連のリトアニアで話される言語ですが、ロシア語やドイツ語、ポーランド語などの強い影響を受けながらも独自性を保ち続けた言語で、文法のみならず単語にもサンスクリットと共通する部分が多く存在するのです。

動詞も古いインド・ヨーロッパ語らしく複雑なシステムを残しており、人称と数によって変化します。時制は現在・未来・不完了過去・完了・アオリストの区別があります。アオリストは「単純で列挙的、瞬間的な動作」を表わすために使われるアスペクト(時制とは別に、動作の完了や不完了を表わす概念)であり、ギリシア語など一部の古風な言語にのみ見られるものです。

上記のように、サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族の古い形質を残している言語であり、習得のためには名詞や動詞の変化を大量に暗記する必要があります。単純に名詞の格変化や動詞の時制変化が現代のヨーロッパ語よりも多いため、文法の習得に時間がかかるとされているロシア語やポーランド語などと比べても、習得には時間がかかる言語だと考えることができます。逆にいえば、サンスクリットはインド・ヨーロッパ語族の言語であることから、言語学習のアプローチとしては、ロシア語やラテン語など他の古風なインド・ヨーロッパ語の学習方法を応用することができる言語でもあるでしょう。

音声的な側面に関していえば、サンスクリットは古代語であるため、どのように発音されていたのかが必ずしも明らかではありません。これは古代ギリシア語やラテン語にも共通して言えることです。サンスクリットの音韻においては、2つの音が並んだときにおこる連声(連音)が特徴的だとされています。連音は日本語の連濁・連声・音便などのことを言いますが、サンスクリットでは連声が規則的に起こることが特徴として知られています。

サンスクリットは紀元前に成立した文語ですが、仏教の開祖釈迦(ブッダ)の時代には、すでに口語として話されなくなっていたとされています。当時の口語として話されていたのは「プラークリット」と呼ばれるパーリ語やマーガーディー語をはじめとするさまざまな言語です。しかし、サンスクリットは文語としては広く使用されており、宗教・学術・文学の公用語として通用していたとされています。4世紀頃に栄えたインドの王朝であるグプタ朝においてはサンスクリットが公用語とされ、サンスクリットによる文学が多く残されました。

さて、上記のような性質を持つサンスクリットですが、現在どの程度使用されているのでしょうか。現在、2001年のデータでは、インドにはサンスクリットの話者が約1万4千人存在していることになっています。おそらくは、聖職者を始めとする知識人階級がサンスクリットを日常的に使っていると考えられます。カトリックを中心とする宗教や学術の言語として使用され続けているラテン語と近い地位にあると言って良いでしょう。インドには22種類の公用語が存在しているとされますが、サンスクリットはそのなかにも含まれています。

サンスクリットは、仏教を受容した日本にもある程度の影響力を持っていました。とはいえ、日本人の人々は仏教を中国経由で輸入したため、その時点でサンスクリットは漢訳された状態になっていました。仏教用語の多くはサンスクリットに由来し、それらはサンスクリットの発音を漢字で音訳したものになっています。例えば、「南無阿弥陀仏」は「礼拝」を意味する「namo」と「阿弥陀如来」を意味する「amitābha」であり、「卒塔婆」は「stūpa」だとされています。また、日本語で良く使われる単語である「旦那(檀那)」は、もともと「布施」を意味する「dāna」を音訳したものであり、それが転じて最終的には「配偶者」を指すようになったとされています。英語の「donation」という単語は、ラテン語の「与えるdōnō」という単語から派生したものですが、大本を辿れば日本語の「旦那」と同じ語源ということになります。ここにも、サンスクリットとラテン語の系統的なつながりが現れています。

上記のように、宗教的な意義のみならず、日本語に対する影響という意味でも、サンスクリットは重要な言語です。上記の通り、漢文と異なり、現代日本でサンスクリットを学ぶ機会はそれほど多くないと言えるでしょう。しかし、大学の文学部や宗教系学部では基本的にサンスクリットを履修することができます。文学部で「古典語」と言えばギリシア語・ラテン語・サンスクリットのいずれかを指すことが多く、サンスクリットの履修はそれほど珍しいことではないのです。仏教学のみならず、インドの哲学や文学などを学ぶ上でもサンスクリットは必要なので、これらの分野を扱っている大学では、サンスクリットの授業が開講されています。ギリシア語・ラテン語はヨーロッパの文明を、サンスクリットはアジアの文明を代表する言語として知られていますが、いずれもインド・ヨーロッパ語族に含まれるという事実は興味深いですね。これは単純に、インド・ヨーロッパ語族の言語がユーラシア大陸の広範囲に分布していた、という地理的な問題なのですが、なぜインド・ヨーロッパ語族がここまで広まったのか、ということは言語学が解明すべき一つの課題ともされています。

本日は、ギリシア語・ラテン語・漢文などと並び重要な古典語とされているサンスクリットについて扱いました。サンスクリットは宗教の典礼言語だったことから、宗教との結びつきから説明されることが多いのですが、ここでは主に言語としての特性という観点から解説することを試みました。日本はサンスクリットを学ぶ環境が比較的整っている国ですから、機会があればぜひ学んでみたいものです。上述の通り、文法の習得にはそれなりに時間はかかると思いますが……

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武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。