言語について⑱セルビア・クロアチア語

このブログでは、これまでさまざまな言語について書いてきましたが、そのなかでも特にインド・ヨーロッパ語族に含まれる言語を多く取り扱ってきました。インド・ヨーロッパ語族はその名称通り、現在のインドからヨーロッパ西部に至る幅広い地域で話され、植民地時代を経てアメリカやアジアなど世界中に拡大しました。インド・ヨーロッパ語族のなかでも、このブログで特に注目してきたのが、ロシア語などのスラヴ語派に含まれる言語です。スラヴ語派の言語は東ヨーロッパで広く話されている一大言語群であり、その規模はフランス語やイタリア語の属するロマンス諸語、英語やドイツ語の属するゲルマン諸語に匹敵するものだと言えるでしょう。

スラヴ語派の概要についてはすでに以前の記事にまとめてありますが、スラヴ語派の言語は東スラヴ語群、西スラヴ語群、南スラヴ語群に分かれます。東スラヴ語群にはロシア語、ベラルーシ語、ウクライナ語が含まれ、西スラヴ語群にはポーランド語、チェコ語、スロヴァキア語などが含まれます。東スラヴ語群と西スラヴ語群の言語が話されている国々については、以前の記事でも扱ってきました。一方、南スラヴ語群については、それほど詳細に記述してきませんでした。東スラヴ語群や西スラヴ語群の言語が北東ヨーロッパで話されているのに対し、南スラヴ語群の言語は主としてバルカン半島で話されています。バルカン半島といえば、第一次世界大戦の原因にもなった多民族地域として有名ですが、まさにその現場で話されているのが南スラヴ語群なのです。南スラヴ語群には、セルビア・クロアチア語、ブルガリア語、マケドニア語、スロヴェニア語などが含まれます。本日はそのなかでもっとも多くの話者数を誇る、セルビア・クロアチア語について書いていきたいと思います。

上述の通り、セルビア・クロアチア語はインド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群に含まれる言語です。セルビア・クロアチア語はバルカン半島に住むセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人、モンテネグロ人の言語とされています。現在セルビア・クロアチア語の話者数は1700万人と言われており、オランダ語などと並ぶ数字となっています。ここで注意しなければならない点として、セルビア・クロアチア語のうちセルビア人の話すものを「セルビア語」、クロアチア人の話すものを「クロアチア語」のように別言語として考えることも多いという事実があります。さらには、ボシュニャク人の話す言語を「ボスニア語」、モンテネグロ人の話す言語を「モンテネグロ語」とも呼びます。これらの言語はすべて文法や語彙、発音が共通しているため、セルビア・クロアチア語という一つの言語として考えることが多かったのですが、最近では国ごとに一つの公用語を制定するため、それぞれの国で別の名称が使われ、さらに正書法もそれぞれ異なるものが使われるようになりつつあります。背景としては、ヨーゴスラヴィアの歴史が存在します。

バルカン半島に1918年から2003年まで存在した国家「ユーゴスラヴィア」については、以前の記事でも取り上げました。「ユーゴスラヴィア」という言葉は「南スラヴ人の国」を意味し、南スラヴ語群の言語を話すさまざまな民族が居住する国として知られていました。ユーゴスラヴィアでは、セルビア・クロアチア語、マケドニア語、スロヴェニア語という3つの南スラヴ諸語が公用語とされていましたが、共通語として中心的な位置を占めていたのが、セルビア・クロアチア語でした。

以前の記事でも書いた通り、ユーゴスラヴィアでは1980年以降に民族間の対立が顕在化し、特に正教徒のセルビア人とカトリックのクロアチア人の対立は苛烈なものとなりました。さらに、イスラーム教徒のボシュニャク人もそこに巻き込まれ、三つ巴の抗争が繰り広げられていました。とはいえ、セルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人の話す言語は、「ユーゴスラヴィアの公用語」としての「セルビア・クロアチア語」だと考えられていたのです。しかし、ユーゴスラヴィアの諸民族が独立を掲げて戦争状態となったユーゴスラヴィア紛争のあと、スロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立し、結果としてセルビアとモンテネグロのみがユーゴスラヴィアのなかに留まりました。この時点で、「セルビア・クロアチア語」は「セルビア語」、「クロアチア語」、「ボスニア語」に分裂していくことが決定的となりました。さらに、2006年にはモンテネグロもユーゴスラヴィアから独立し(同時にユーゴスラヴィアは消滅)、「モンテネグロ語」を公用語としました。このように、「セルビア・クロアチア語」は、それぞれセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語に分裂したのです。念のため言っておくと、これらの言語の違いは政治的・文化的なものであり、セルビア・クロアチア語としての共通性が失われたわけではありません。とはいえ、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語のあいだには、それぞれ独自の言語としての差異が顕在化しつつあるという指摘も出てきています。

セルビア・クロアチア語の言語的な分類と政治的な分類はやや異なっています。セルビア・クロアチア語には、シュト方言、カイ方言、チャ方言、トルラク方言などの方言が存在し、それぞれの相互理解には難があると言われています。セルビア・クロアチア語の標準語のもとになった方言はシュト方言です。そのため、セルビア・クロアチア語の標準語の名称を変更したものとも言えるセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語はすべてシュト方言に基づいています。しかし、クロアチアの大部分ではカイ方言やチャ方言が話されており、セルビア南東部ではトルラク方言が話されているため、これらの地域では標準語との乖離が大きくなっています。

セルビア・クロアチア語は一つの言語として認識されていた、というようなことを書きましたが、同一言語内にも重要な違いがありました。それは、どのような文字で書かれるか、という点です。セルビア・クロアチア語は、セルビアではキリル文字で、クロアチアではラテン文字で書かれることが一般的でした。現在でもセルビア語は主にキリル文字で書かれ、クロアチア語はラテン文字で書かれることが多いです。これも宗教と結びついており、キリル文字が正教圏で使われるのに対し、ラテン文字がカトリック圏で使われることと関連しています。他のスラヴ語派の言語を見ると、主に正教圏で話される東スラヴ語派の言語はキリル文字で記されるのに対し、カトリック圏で話される西スラヴ語派の言語はラテン文字で記されます。セルビア・クロアチア語は正教圏とカトリック圏にまたがって話される言語であるため、キリル文字とラテン文字の両方で書かれるという事態が生じるのです。現在では、ボスニア語とモンテネグロ語もラテン文字で書かれることが多くなりつつあるようです。

本日は、南スラヴ諸語のなかでも最大の話者数を擁するセルビア・クロアチア語について書いてみました。セルビア・クロアチア語は、それ自体単一の言語として見られる場合もあれば、そのなかでセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語を分離する場合もあり、「言語」の定義を考えるうえでも非常に興味深い例です。セルビア・クロアチア語は、言語が常に変遷していくという当たり前の事実を再認識させてくれます。ユーゴスラヴィア紛争の発生から四半世紀以上が経ち、ユーゴスラヴィアから独立した各国の状況は安定しつつあります。このような状況で、かつて単一の言語だと考えられてきたセルビア・クロアチア語も、それぞれの国々でセルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語としての地位を確固たるものにしつつあるようです。言語が変化しつづけるものだと言っても、相互理解が不可能なほどの隔たりが生じるにはかなりの時間が必要となりますが、セルビア・クロアチア語が分裂の過程上にあることは事実でしょう。今後、セルビア・クロアチア語が社会情勢の変化とともにどのような変化を遂げていくのか、注目しておく必要があるように思われます。

ABOUTこの記事をかいた人

武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。