言語について⑲バルカン言語連合

こちらのブログでは、これまでさまざまな言語、特にインド・ヨーロッパ語族に含まれる言語をテーマとして取り扱ってきました。イタリック語派、ゲルマン語派、スラヴ語派、バルト語派、インド・イラン語派などの語派についても、多くの事柄に関する記事を掲載してきました。もうこれ以上書くことはないのではないか、と思われる方も多いかもしれません。しかし言語の世界は謎も多く、ブログの題材となる話題には事欠きません。殊インド・ヨーロッパ語族の諸言語に関して言えば、これらの言語が話される地域は世界中に広がっており、また解明されつつある事実も多く存在します。

さて、これまでの記事では、「語族」や「語派」といった「言語系統」という観点を軸として言語について考えてきました。言語系統については19世紀の比較言語学以降、さまざまな事実が明らかになってきており、言語を語る上で欠かせない概念だと言えます。しかし、ある言語とある言語の関係性を言語系統という視点でのみ考えることには無理があると言えます。言語系統という視点のみよる考察においては、そこから捨象されてしまう事実が多いことが否めないのです。というわけで、本日は言語と言語のあいだに存在する、系統以外の関係性について書いていきたいと思います。

ある言語とある言語の類似性や共通性は、必ずしも言語系統の近似性によって根拠づけられるものではありません。系統の異なる言語と言語は、その話者同士の交流によって絶え間ない接触を続けており、そのなかでこれらの諸言語のあいだに何らかの共通性が現れてくることもあるのです。このように、系統が異なるにも関わらず文法的・音韻的な類似性を持つ言語群の関係性を「言語連合」と呼びます。言語連合はドイツ語で「Sprachbund」と呼ばれます。また、ロシアを代表する言語学者であるクルトネやトゥルベツコイもこれに類似した概念を20世紀前半に提唱しています。具体的な言語連合の例としてもっともよく知られているのは、「バルカン言語連合」です。

バルカン半島については、このブログでも何度か取り上げてきました。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、第一次世界大戦の原因ともなったバルカン半島には、現在に至るまでさまざまな民族が共存し、多種多様な言語が話されています。これらバルカンの言語はすべてインド・ヨーロッパ語族に含まれるのですが、インド・ヨーロッパ語族のなかでも、スラヴ語派、イタリック語派、ヘレニック語派、アルバニア語派などそれぞれ異なる系統に属しています。それにも関わらず、これらの言語のあいだにはさまざまな類似的特徴を見出すことができ、「バルカン言語連合」として、言語連合という概念の代表例だと考えられているのです。

具体的には、バルカン言語連合に含まれる言語として挙げられるのは、ギリシア語、アルバニア語、ルーマニア語、アルーマニア語、ブルガリア語、マケドニア語、セルビア・クロアチア語、ロマ語などがあります。上述の通り、すべてインド・ヨーロッパ語族に含まれる言語ですが、系統別に見ていくと、ギリシア語がヘレニック語派、アルバニア語がアルバニア語派、ルーマニア語・アルーマニア語がイタリック語派、ブルガリア語・マケドニア語・セルビア・クロアチア語がスラヴ語派、ロマ語がインド語派に属し、5つの語派に分かれています。

バルカン言語連合の共通性として挙げられるのが、後置定冠詞の使用、属格と与格の合流、「望む」や「したい」という動詞を使用した未来形の表現、などがあります。少し言語学的で難しいので、具体的に見ていきましょう。後置定冠詞は、その名称通り「後置する定冠詞」のことです。定冠詞は英語における「the」、フランス語における「le」、「la」、「les」のように、指示対象が特定されている場合に使う冠詞です。例えば、「その少年」という表現は、英語では「the boy」、フランス語では「le garçon」となり、「the」や「le」といった定冠詞が名詞の前に置かれます。一方、後置冠詞は名詞の後に置かれる冠詞なので、イメージとしては「boy the」や「garçon le」のような状態になるということです(あくまでイメージです)。実際の例を見ておきましょう、バルカン言語連合に含まれる言語であるルーマニア語とブルガリア語で先ほどの「その少年」という句を訳すと次のようになります。ルーマニア語「băiatul」・ブルガリア語「момчето(momčeto)」。ルーマニア語では「少年」を意味する「băiat」のあとに定冠詞「ul」を付加して、またブルガリア語では同じ意味の「момче」に定冠詞「то」を付加して「その少年」という句を構成しているのです。このような表現の仕方はルーマニア語とブルガリア語だけでなく、他のバルカン言語連合の言語にも見られ、言語連合内の共通の特徴の代表例となっています。

上述の「属格と与格の合流」は、日本語の格助詞「の」のような意味を持つ「属格」と、「に」のような意味を持つ「与格」が同じ形になっている、ということです。ロシア語など他の言語においては、属格と与格は異なる形を持ち、用意に区別できるのですが、バルカン言語連合の言語では、この2つの格変化の区別が失われているため、それが難しくなっている、という特徴があるのです。

最後に挙げた「『望む』や『したい』という動詞を使用した未来形の表現」ですが、こちらは独特の構文の仕方をするバルカン言語連合の特徴とされています。英語では未来形の文を作る際、助動詞「will」を使用することにより、「I will do(私はするだろう)」のような構文を作りますが、バルカン言語連合の諸言語においては、助動詞「will」の代わりに動詞「望む」を使います。具体例を見ておきましょう。セルビア語では英語の「I will see」を「ja ću vidjeti」と表現します。ここで「ja」は「I」に、「vidjeti」は「see」に相当します。問題の「will」の部分ですが、セルビア語の「ću」は「~したい」という意味の動詞「hteti」の一人称単数形です。つまり、バルカン言語連合の特徴であり、「したい」という動詞を使った未来形の表現となっていることがわかります。

以上のように、バルカン言語連合は、言語系統を越境した言語の共通性を示す事例として非常に有名です。共通性が多いから相互理解が可能である、ということはまったくなく、そもそもバルカン言語連合の諸言語は言語系統がバラバラなのでその共通性もごく一部に留まっているのですが、それにしても、言語系統が異なるにも関わらず一定の共通的特徴が諸言語に現れている、というのは神秘的です。バルカン半島ではさまざまな言語を話す諸民族が入り乱れて居住しているため、彼らの話す言語が絶え間ない接触を続けた結果、これらの共通性が現れてきたのではないかと考えられますが、実際どのようにして言語連合が成立してきたのか、というプロセスには謎も多いようです。かつてバルカン半島で話されていた言語が基層言語となり、その影響によって言語連合が発生したのではないかとも言われています。インド・ヨーロッパ語族の言語については、世界の他の語族と比較すると研究も進んでいますが、それでも言語連合についての謎を解き明かすのは一筋縄ではいかないのでしょう。今後、言語学的にどのような解明がなされていくのか、注目していきたいところです。

さて、本日は言語連合の代表例であるバルカン言語連合をテーマにしてきましたが、実は言語連合は他にも存在するのではないか、という説が提唱されています。もしも諸言語が接触によって共通的特徴を持つようになるのであれば、このような現象がバルカン半島以外の地域でも起こると考えるのは自然なことでしょう。現在、その存在が指摘されている言語連合としては、アルタイ言語連合、古シベリア諸語、メソアメリカ諸語、大洋州諸語などが存在します。さらに注目すべき仮説としては「日朝言語連合」があります。これは日本語と朝鮮語の類似性を言語連合の概念で説明しようという仮説です。以前の記事でも取り上げた通り、日本語と朝鮮語には文法や音韻に一定の共通点が見られるものの、基本的な語彙がまったく異なっているため、言語系統としてはそれぞれ「孤立した言語」とするのが定説となっています。一方、日本語と朝鮮語の類似性をどのように説明するのか、という部分には課題が残っており、この部分を説明するのに「日朝言語連合」という説を唱える人もいるようです。言語連合は言語系統と異なり、考察の方法論もそれほど定まっていないため、研究には時間がかかると考えられます。しかし方法論が確立すれば、これまで言語系統の概念では説明がつかなかった諸言語間の共通点を学術的に説明できるようになる可能性があります。

ABOUTこの記事をかいた人

武蔵野音大卒の声楽家。様々な芸能技法を武田梵声氏に師事しており、音域は8オクターブ(E-1〜E7)に及び、コロラトゥーラなども得意とする。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。人類史上最高の歌手を目指して日々ストイックなトレーニングを重ねている。