クソ曲よ、さらば:ダサいのは悪いことではない。下手なのが悪いことである。

「ダサい」のはだめ?

音楽の良し悪しを評価されるときの一つに、「ダサい」と言う概念があり、これは垢抜けてない様、洗練されていない様子を示して使われる言葉ですが、「ダサい」=「失敗作」という間違った発想が蔓延しております。

これは、なぜ間違いなのかというと、ダサいということは目が出たばかりのイモであり、十分に美の定義(エントロピー崩壊と再生)を満たしています。

問題となってくるのは、ダサい曲を作る人は大体作曲能力が低いことによって、垢抜けていない、洗練されていない感じが併発していることです。

つまり一般的な「ダサい」は作曲下手によって付随して起こっている現象であり、まるで不意にできてしまった野菜の苦味に栄養があるように、実はそれ自体には価値があります。

垢抜けていない様子

垢抜けていない様子をNGとして、かっこいい曲ばかり作ろうとするから、ほぼカスしか生まれてこないのです。垢抜けていない様子、例えば幼児や翁、カビや芋虫の動きなど、原始的に近い動きが表現から排斥され、まるで自然現象をコントロールしたい(生命の根源を恐れる)現代人の思考が表現されています。

どちらかというと、本来ならばこれらは芸術としてポイントが高いものであり、性倒錯の要素を組み込むこともあり、飛躍的に作品の魅力を帯びることがあります。

そして、その条件とは、作曲がうまい上でダサさを扱うことです。

毒物を扱う

いわば、普通にかっこいいとされるテーマを扱って綺麗なことしか言わないならば、一般的に美しくなりやすくなるのは当然ですが、それはプロとしての敗北を意味(美の感覚が間違っている)し、生命の根源、宇宙の根源にこそ向かってほしいものです。

いわば「ダサさ」は調理が難しすぎて、圧倒的な説得力の上で提示しないと一般的にはドン引きされてしまいます。(一般人に受け入れられたい場合)

極上の技術があって、ダサさなどの危険な毒物を捌くことができるようになります。決して、ダサさを排除した綺麗(そう思われている)な状態を目指し尽くすことが、良い曲作りとして理想化しないことです。

できるだけ、ダサさとか、芋虫とか嫌われているようなものをうまく扱った先に、宇宙の根源やこの世の全てとの対話が広がっていくでしょう。そこに本当の美があります。

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