
1993年、茨城県に生まれる。日本とイギリスのハーフで、スペインやベネズエラの血も入っている。
人類史上最高の歌手を目指すため、武蔵野音楽大学卒業後にネット上で不労所得を生むシステムを複数構築し、そこからIT事業と音楽事業を経営。
あえて事業拡大をせず、自動で入ってくるお金と自由な時間をすべて音楽の技術と知能の成長に投資し、
何億年も残る芸術作品を作るために、究極の声と身体と精神を目指す、ストイックな毎日を送っている。
音域は8オクターブ(-E1~E7)で、重く強い声でのコロラトゥーラ技術なども得意とし、作品制作の際はエンジニアもこなす。
「平和な地球というアート作品を作りたい」
ー幼少期ー
僕は小さい頃、とても変わった子で、誰とも会話が成り立たず、自信もなく、引きこもりがちで、
一番なんでも打ち明けられるのは小学校の校庭にあったモミジの樹だった。
周りからは馬鹿にされ、自分のことを心底馬鹿だと思い、何も出来ないと思っていたが、
声だけは大きく、最初からオペラ風な発声が出来て、武蔵野音楽大学に行くことになる。
その中でもやっぱり周りと合わず、自分はおかしいんだと思っていた中、
一人で僕を育ててくれていた母親が病気で倒れてしまった。
それで僕は、もう自分がダメなことを、このままで良いという言い訳にしちゃいけないと思って、
今までは「どうせ俺が成功するなんて無理でしょ」と思ってほとんど聞いていなかった授業を本気で聞いてみたら、
授業を聞いていただけで全部覚えて、ちゃんと受けた授業では学年一位の成績を取ることが出来た。
この時から僕は、周りと合わなかったり馬鹿にされることは、僕が馬鹿だからではないということに気づき、
20歳の時、お母さんのためと、諦めていた自分の人生を切り開くために、世界一のオペラ歌手を目指すことを決意する。
命がけでやる人間の力は恐ろしいもので、日本語で出版されている発声の本を全て読み、
先生たちの知識量をすぐに超えてしまったので「自分の力でやるしかないな」と思った。
周りには「そんなんじゃ社会でやっていけないぞ」「お母さんを苦しませるな」とも言われたし、
先生には僕は反抗しているつもりは全くなかったのだが、態度が気に入らなかったらしく、
周りの生徒や先生に陰口を言われ、学校全体が僕の敵になり、
ついには偉い先生たち3人との四者面談が行われ「学校をやめて欲しい」と言われてしまった。
この時は精神的にかなり来ていたが、少ないながらも心から支えてくれる友人や先生がいたし、
なんとか頑張れた。
この時から、一般社会の常識や現代人に関する疑いがさらに強くなっていった。
自分に起きた現象を理解するため、脳や社会学の本を読みまくった。
僕はこの時から、技術と知識に全てを注いだほうが良いと思ったので、
全てを削ぎ落とそうと、1ヶ月以上毎日同じ服で過ごした。
僕にとっては幸福や楽しみなどはどうでもよかった。
そうこうしているうちに自力でバスバリトンの歌い方を完全にマスターした。
絶対無理だと言われていた重い声のハイツェー以上の音を身につけたり、音を高速で動かすアジリタを習得した。
幼少期から共感覚があり、音を映像や言語で認識出来たのも学習の加速に大きかったと思う。
この時点で、この若さで、動かしにくいと言われる強い声でここまで歌える者はこの世に居なかったと思うが、
僕は調子に乗らなかった。そしてこの時、気がついた。
ーベルカント唱法ー
みんながオペラの発声、ベルカント唱法だと思っている物はベルカント唱法ではないということに。
僕もその一人で、ハイツェーなどは一見しっかり出ているが、その背景にある声の機能が伴って居ないことに気がついた。
世の中の声楽家の99%が、そもそものスタートラインで間違っていることに気づいた。
これを正しく認識できる人は世界に数人しかいないと思うが、僕はそれでも本物を求めた。
本物のベルカント唱法を習得するには、パソコンでいうプログラムモード状態にしなくては発達が遅くなる。
そのため僕はオペラを歌うこと自体が害になると考え、舞台や仕事を一切断り、練習に専念することにした。
ベルカント唱法を始めてから習得にかかる期間はだいたい6〜8年。
この間に、一般的なオペラの練習では考えられないあらゆる刺激を喉に与えてプログラミングするのだ。
それは現代の「早く良い思いをしたい」という発想そのものとミスマッチなものであった。
だから、現代でそれをやることは大変な痛みを味わうものだった。
しかし僕はどうしても本物が良かった。本物ができる人がこの世にいないと、
ベルカントが滅びてしまうかと思って怖かった。
今まで死ぬような思いで習得した技術を全て捨てるのは、
勇気のいる行為だとは思うが、偽物の技術なんていらないからと、余裕で捨てた。
ー家の無い時代ー
勉強する時間が欲しかったのでほぼ働かずに、友達の家を渡り歩くホームレス生活が始まった。
食事は節約と身体機能強化のために一日一食で、尿を飲んで生きていたこともあった。
今思うとやりすぎだとは思うが、僕はめちゃくちゃのめり込んでしまうタイプなのだ。
しかし、この生活で僕は覚醒した。
その生活はキツかったが、この時間が僕にとって良い時間だった。
ー起業時代ー
必死であらゆる情報を集めまくっていた僕は、この時ネットでペンネームを使い電子書籍を出したり、
スタッフを雇い人生相談を始めたりして年収1000万以上を働かずして生み出すシステムを作った。
ホームレス期間は時間がいっぱいあって勉強がたくさん出来たのと、
意識を失って高速で文章を書き続けるワザを習得していたので、楽に初月から80万以上稼げて、とても楽しかった。
あと、中学の頃からは植物だけでなく電化製品と会話していたので、パソコンはかなり得意であったのが大きかった。
大学時代、「そんな考えじゃ社会でやっていけないぞ」と言われていたが、そんなことはなかった。
この時は23歳だったが、今もこのシステムは働き続けている。
それで得たお金でも全く調子に乗らず、贅沢はせず全て音楽の技術に使い友達の家に住み続けたが、
ついに友達の家の人に怒られてしまったので、さすがにアパートを借りた。
そのアパートは完全防音で、とても環境が良かったので機材や設備を買ってスタジオにした。
そして、僕は大学の頃からの数少ない理解者であった渡邊拓也を誘い、
本物を追求するためのこのEnrichというレーベルを始めたのだった。
ーEnrich設立ー
当時まだ僕はベルカント唱法としての声が全然完成していなかったが、
「ギルバート慶はオペラを諦めた」
「将来どうするの?」
などと言われることが多く、説明してもうまく伝えることができず、
さすがに誰にも理解してもらえず孤独に頑張ることに限界がきたので、どうしてもやりたかった。
(今思うと、僕は自分のやっていることをあまり人に説明していなかったので、理解してもらえないのは当然だと思う(笑))
そして、レコーディング、ミキシングなどの技術も身につけた。
そして未熟な分を補うほどの、現代社会では抹殺されるような負の情動技術を使って演奏をした。
◆S.Rachmaninoff×KEI GILBERT
声楽家ギルバート慶のファーストアルバム。
言葉ができる前の人間は危険を知らせる際、鳴き声によって意思を伝えていたため、
現在も声の高さや音色によって感情が反応してしまう現象が起こる。
本アルバムはよりラフマニノフの世界をリアルに感じてもらうために、
この演奏者の情動によって声の音色が変わり情動を伝播させる生体反応を利用。
世界初の試みとして絶望感や怒りの感情が湧いた時をあえて厳選してレコーディングしたため、
短いアルバムではあるものの今までのクラシック音楽を良い意味で「ぶち壊す」ような作品となっている。
*****
技術では未熟だが、挑戦的な内容が多く、かなり好きな作品となっている。
僕の情動の力は尋常ではなく、現代社会ではキチガイと言われる精神状態が演奏には必要だったので、ちょうどよかった(笑)
クラシック音楽や、普通の音楽に飽きちゃった人
自分も技術を習得したい人
本質的な物に興味がある人などに特におすすめである。
ー習得したい技術が難しく、さらなるストイックが必要とされたー
その後はまたトレーニングに集中したが、さらなる高難易度の技術を身につける必要が出てきてしまい、
これがとても難しく、完璧な食生活や定期的なメンテナンス、身体機能のトレーニングやカウンセリングにかなりの労力を費やし、
一般的には、相当な難易度で、限られた人しか出来ないと言われるハイエフの習得や、
それ以上の音域の獲得をすることができ、現在は高音はC7まで伸び、女性のオペラ歌手の音域の最高音よりもずっと広い。
また、それよりも難易度が高いと言われている、高音域のアジリタや、ハイエフ以上の音域の高速スピッカート連打など、
様々な技術を習得した。
おそらくこの強くて重く動かしにくいと言われている声で
ここまで出来るのは現在世界に僕だけだと思う。
これらはかなり大変だった。体を左右非対称に使うと声を出す機関がずれ、それが音に影響したり、
体も脳も最高の状態にしないと出来なかった。
そしてそれを毎日継続するために、大好きだったギターなども含む、あらゆることを辞めた。
ベルカント唱法は発声だけではなく、精神力も同等かそれ以上に大事な技術であり、これからさらに磨いていく。
ーこれからー
こんなに頑張ってここまで出来るようになっても、古代の人間はこのくらい楽勝だったという事実がある。
現代社会で失われた身体機能、脳の機能の代償はそれほどまでに大きいのかと思った。
ベルカント唱法の習得は、ここまで出来るのが当たり前で、これからが本番だ。
僕はまだプログラムモードを行わなければならないが、今後は、オペラの曲だけではなく、
このような僕しか出来ないテクニックを使って、渡邊と一緒に作品作りしていくだろう。
最初の頃の、「お母さんを幸せにしたい」という目標から大きく離れてきているが、
僕は生きているからには、芸術の真実を追求して行くことが僕の使命だから、
練習や勉強もさらに行っていく。
今後もお楽しみに!